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きっかけに出会うかどうかはギャンブルみたいなもので
昔、「輪る(まわる)ピングドラム」というアニメ作品があった。
そのなかで、
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる!」
というセリフがあった。
「きっと何者にもなれないお前たち」というのは、ほかでもなく市井に生きる私たちの事である。当時、アニメを見ている私たちに対して語りかけているのか、と子供ながらに思っていた。
大人になってごく普通の生き方をしていると、子供の時のような日々の感動はいたく少なくなってしまう。
それは、学校では永遠に次に進んでいく感覚があったが、仕事となると毎日が同じことの繰り返しであり、明確な発展が日々にないからなのだと思う。
例えば、営業であれば数字を出して売り上げを毎月作り続けるという毎日が繰り返されるだけだ。やること自体は変わらない。
だから、いたずらに、漫然とした意識の中で、地に足のつかない、ふわふわとした日常がただただ過ぎていくのがふつうである。
「大義」「志」なんてことばがある。社会のために、人のために、という思いのある心向けのことだ。
こうしたものに出会うことができるのは、もしかしたら非常に幸せなことなのではないか、という思いに最近至っている。
「大義」とか「志」なんていうのは、探して見つかるものではない。人から言われて「じゃあそれで」という性質のものでもない。適当に選んでどうにかなる、そんなものでもない。
奇跡的にふと気づく瞬間が訪れるかどうか。それだけだと思う。
だから、気づかない人はそういうものに永遠に気づくことなく、ただ人生が過ぎていく。
それは仕方ないことだ。ただ気づく自分と、気づくタイミングが自分の人生には存在しなかったという、それだけの話である。
要は、きっかけがなかったのだ。
気づく人は何者かになっていこうと人生に意味を見出すだろうし、気づかなければ何者としてでもなく死んでいく。
気づけないのであればまだ時間が必要なのだと思うが、「自分は何者でもない」と気づきながら何者かになろうとしないことを、私たちはもっとも忌避しなくてはならない。
「自分は何者であるか――」
その永遠の疑問への問いを探って、きっかけに出会い、勝手に気づいていく。そう考えてみると人生とは、きっかけを引き当てられるかどうかのギャンブルのようなものなのかもしれない。
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