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想いをどんなに寄せたとしても

当事者にならないとわからないことはたくさんある。
親になってみないと親の気持ちもわからないし、障害を負ってみないと障害者の気持ちはわからないし、成功しないと成功者の気持ちはわからないのだ。

2020年、三島由紀夫の没後50年を記念し、「NHKスペシャル 三島由紀夫 50年目の“青年論”」が放映された。番組内で、生前親交のあった美輪明宏氏が「天才の心を推察するのは僭越です」という言葉を残している。
これは三島のような天才の思考回路や感性を推察すること自体が僭越であって、ことさらに言葉を発するべきではないという話なわけだが、私は「そもそも、他人の心を推察し、そして理解した気になるというのは極めて僭越なる行為なのではあるまいか」という気がしたのである。

最近では障害を負っている人や病気の人でも情報発信をして、インスタグラムなんかでいろんな画像を出してくれている。知られざる実態を知り「なるほど、こういう苦労があるのか」ということもわかるようになってきている。
でも、インスタグラムなどのSNSには映ることのない、人の目に触れない日常のようすは、当事者にならない限りは決して知ることができない。でも、それを推察してわかった気になるのは極めて僭越である。

これは成功者でも同じで、成功した様子を知って「なるほど、こうするとうまくいくのか」と思ってしまうのだが、そうした煌びやかな成功体験の裏側に積み重ねられた絶え間ない研鑽と努力の日々は私たちのなかからはすっかり捨象されている。
そして成功の日々を見て「大変なことがあったんだな」と成功していない身で推察してわかった気になるのもまた、幾分僭越であるのだろう。

つまるところ、いくら想いを寄せたところでも限界があるということだ。だからこそ、限界があるということを分かったうえで思いを馳せないと、たぶんそのうち勘違いをしてしまう。
私たちが心を人に寄せて理解した気になっていることに、自分自身が気づけていないというのは実に恐ろしいことである。それだけに謙虚に心を寄せてみるというのは、実は大事なことなのやもしれない。

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