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感謝はあふれるもの

以前奥さんのお父さんと話をしていたときに子供の話になったことがあった。私にも娘が生まれたこともあり「だれしもあんな感じで大きくなるんですねえ」というと、ぽろっと笑いながらこんなことを言った。

「まあ、子供のほうは自分で勝手に大きくなったと思ってるんだよね」

自分自身が幼年期のころを思い返し、確かになあと思うほかなかった。
目の前に食事があるのは当たり前、家があるのも当たり前、面倒をみてもらうのも当たり前、子供だった私にとってすべてのものはあることが当たり前で、当たり前の上に私は何の感謝もなく、すくすくと成長していたのである。

食事のありがたさなどを感じたのはいつだろうかと考えてみると、大学の時に独り暮らしをしたタイミングだったように思う。
理由は簡単で、自分が作る食事が死ぬほどマズかったからである。「実家のメシはうまかった」という当たり前の事実を認識させられた。自作の飯のマズさに絶望した時に、はじめて実家の飯のうまさに感謝があふれたものだ。

これは仕事や育児も同じだと思う。
世の中にあるものはその多くが仕事の結果として生まれるが、小さなころにはそんなことに思いが至るはずもない。なぜなら仕事をしたことがないからである。

家でも小さなころに面倒を見てもらうことや、相談相手になってもらうことは当たり前であるが、それが如何に当たり前ではないかに気づくのは独りになって一日の大半を沈黙が占めるようになった時である。
こうしたときにはじめて目の前にあったものが当たり前ではないことに気づき、まさに「有難い」ことに気づくわけだ。

大人になると「感謝しろ」と言われることがある。
言うのは簡単だが、感謝しろといわれて「ありがとう」ととりあえず言っている人というのは、大概の場合本当の意味で感謝はしていない。
そして、「お前感謝してないだろ」と上からなぜか叱るやつも、本当の意味で感謝しているわけではない。

感謝とは、日常の中で当たり前に思っていたものやひとが失われたときなどに、いかにそれが「有難い」かに気づく現象である。
それだけに感謝はおのずから気づき、そしておのずからあふれ出るものであるから、自然と頭が下がるような思いになる。だから誰に言われるでもなく贈り物をしたり筆をとって感謝を形にするのであり、そこに温かな感情が行き来する。感謝は日々培い続ける感性の中から生まれるのである。

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