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ChatGPT隆盛でも「筋肉は裏切らない」

かつてNHKの「みんなで筋肉体操」という番組の中で、インストラクターの先生が「筋肉は裏切らない」という名言を残した。

知的労働者が跋扈するいま、多くの人は座ってばかりいる。そんな現代社会では肉体の衰えが活躍に先立ち、そして人からも時に裏切られ自身の肉体は思うように動かなくなっていき、一種の絶望の中に生きることを余儀なくされる。
そこに光を当てるのが筋肉なのだという「メシア」としての筋肉の意義を指摘した点で極めて大きな価値がある。

知的労働者たる私たちが抱く絶望の中には「自分の仕事がなくなる」というものもある。最近話題の「ChatGPT」をはじめとする生成AIによって、様々な仕事が代替されるのではないかといった話が盛り上がっている。

まずもって、リリースやしょうもないエンタメを書くだけの記者などほぼいらなくなる。特ダネと独自ネタといった、世の中にまだ出ていない話を書ける記者に価値が置かれることになるのかもしれない。
最後に残るのは芸術の分野だといった話もかつてはあったが、絵も描けてしまう生成AIであれば芸術作品もぽんぽんと描けてしまいそうだ。衝撃的なインパクトだ。

少し前、水泳を共にやっていた友人との飲み会で「ChatGPTはどう世界を変えるのか」みたいな話になった。
私は比較的お気楽な立場なのだが、周りの友人は多くの仕事が代替される前提を持っていて、どのような世界が実現するのかという話に移った。

人間にしかできないこと、という意味でいうと、ともに集まれるコミュニティを作ったり、食事をしたりすることなんかがあろうか。AIは群れないし、飯を食わないためである。

それに加えて筋肉の価値も代替されない。生成AI隆盛の時代においても「筋肉は裏切らない」のだ。AIは筋肉をつける必要がないからである。

そして友人と話していたときに面白いと思ったのが「今の時代でも残っている不必要なものはこれからも残るのだろう」という友人の一言だった。

なるほど、ボクシングは殴り合うスポーツではあるが、そもそも殴り合う意味など現代社会ではない。
水泳は水の中でいかに速く泳ぐのかを競うわけだが、あれも本質的には意味のない行動である。平泳ぎなど一番遅い泳法だが、早く泳ぐことを競っているのにわざわざ遅い泳ぎ方をするというのは極めて非合理的である。

ここまでぼろくそ言ってしまったが、それでも現代社会にはボクシングも水泳も残っている。とすれば、生成AI隆盛の時代とは、本質的に価値がないものにこそ社会的な価値が出てくる時代になる一面があるのかもしれない。「筋肉は裏切らない」世界の実現は、シンギュラリティの先にあるのだ。

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