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いきすぎた配慮と自由な価値観と

「記者の仕事とは文章を書くことではなく、どこに価値があるのかを判断することだ」

以前、出来の悪い私を見かねて、先輩にこんな言葉をかけられたことがあった。

記者の仕事は往々にして文章を書くことばかりがフォーカスされるが、文章を書くことは言ってしまえば最後の行為にすぎない。
それまでの取材や、取材に先立つインプットと問題意識を持つ過程のほうが長い。さらにいえば文章を書くことそのものより、実は大事だったりする。

インプットをして問題意識を持ち、取材をするなかで、自然と「これは大事な話だから記事に盛り込もう」「これは面白い」「見出しはこれだな」などと思いが至るようになる。
これらは価値判断、もっといえば「価値観を持つ」ことに他ならない。さらに言えば記事の中身に何を書き、逆に何を書かないのかを考えることも価値判断のひとつである。

最も重要なのは言うまでもなく多くの人の目に触れる「見出し」だ。
見出しに何を取るかということは、新聞記者にとって決定的な価値判断の瞬間であり、己の価値観が最も反映される瞬間である。

組織として発信をする上では「デスクの価値観」と「記者の価値観」が合致するかどうかというところも重要になる。
デスクが面白いと感じることと自分が面白いと感じることとが合致しないとなかなか大変だ。
結果、自分の署名付きなのに、自分にとっては全く面白くない、いわばゴミのような記事が出来上がることもまれにある。
肩を落とすこともあるが、会社組織の名を借りて発信する際にはそういうこともしばしば起こる。


最近、この「価値観」なるものは結構大事なのではないか、と最近感じるようになった。
海自の特殊部隊を創設した伊藤祐靖氏は、2021年の致知7月号で以下のように語っている。

自分の中で何が一番大切なのか、任務なのか、名誉なのか、金なのか、出世なのか……その順位さえ縦列に決めておけば、それ以外のところで迷うことはないと思うんです。それが、やるべきことが並列に並んでいて、優先順位が決まっていないと、ただでさえ本能をねじ伏せながらいろいろ決めなきゃいけない時に何にもできなくなってしまう。

価値観は「かくあるべし」と誰からも強制されるものではない。人生の中で自然と形成されていくものだ。

幼年期から人を喪い続けていれば「生きつづけていることは当たり前じゃない」という価値観を抱くのだろうし、金にも飯にも困らず生きていれば「生きていることも好きなだけ金を使えることも当たり前」という価値観になる。どちらが間違っているわけでもない。

ただあるのは、その価値観にふれた時に自分が「きれいだな、うつくしいな」と感じるのか、「きたないな、みにくいな」と感じるのか、ということだけだ。

価値観など人に説明しても、論理的な説明ができないものだし、感覚的なものが多い。それを理解しあおう、ということの愚を強く感じる。
理解などできないから価値観なのである。
残念だが、そんなものなのだ。

そして、時に腑に落ちない価値観に表向き迎合しないといけない瞬間も組織人にはあるし、全部が全部自分の価値観に沿った人生を歩めるわけでもない。

最近はいろいろなところで、いろいろなものへの配慮が強く求められる。
一つ発言したら「誰某のことを考えていない、不適切だ・撤回しろ」などと批判がやってくる。
世の中全体のために、という枕詞をつけて、単に己の価値観にそぐわない何かを疎外し続けている。価値観に共感するかどうかは、純粋に相手の問題である。

価値観が常にぶつかりあっているこの世の中で、もっとひとはおおらかになれないものか。便利になる中で、思想がどこか偏狭で窮屈になっているように思えてならない。

価値はもっと自由であっていいはずである。
過剰な配慮のもとで縛られた価値観は、次第に人間のしなやかさを奪う。

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