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スクープ至上主義ってどうなのか

記者の仕事をしているといわゆる「独自ネタ」というものを追うことになる。独自ネタというのは要は世の中に出ていない話のことを指すのだが、これをどうやって調達するのかというところで、色々な手段がある。

オーソドックスなのは、取材対象と仲良くなって「実はこんな話があって…」と教えてもらうケースである。
ほかにも、自分で勝手に調査をして新たな事実を見つけ出したりするケースもある。調査報道なんかはこれだ。
あとは官僚なんかに多いが、国際会議で先に影響力のあるメディアにばらして議論をリードする材料に使ったり、人事なんかを先に漏らして世の中の反応を見たりとかするケースもある。

二番目はともかく、最初と最後のケースなんかはまさにメディアが単なる道具として使われていることがわかると思う。


メディアでは「スクープ至上主義」的なところがある。
まあ確かにメディアとしての競争力を維持したいのであれば、だれも報じていないことを報じたほうがいいというのは間違いない。文春がめちゃくちゃメディアとして強いのは硬軟問わずスクープを連発しているためである。

「スクープなどを追ってしょうもない」とメディアを批判する人もまた、スクープに飛びついてふむふむと記事を読んでいる読者のひとりだったりする。きわめて理性的にふるまわないと、この情報社会でスクープに飛びつかずにやっていくのは結構大変だ。まあだからこそメディアはスクープを追う。

しかし、このスクープ至上主義がゆえに妙なことになっているようにも感じている。

まず、誰かから情報をもらうというとき、そこには互いの関係に「優劣」が生じてしまう。情報をくれた人がメディアに優越するわけだ。だからあまり悪くは書けない。
もし情報をくれたひとがいたとして、その情報をもとにけちょんけちょんに書いたとしたら「このメディアに情報を流すのはもうやめておこう」となるのは自然なことだ。結果的に独自ネタは取りづらくなる。

そしてもうひとつ「見てくれる人の数」も重要だ。独自ネタを流したところでそのメディアを誰も見ていないのであれば流す意味はない。ネタを渡す側はある意味「広告」のようにマスコミを使うのであり、ロクにみられていない媒体に価値はない。「パブリシティ」なんて言葉があるがまさにその通りで、「広告」としてのマスコミに価値がないのなら、独自ネタを流す意味もなくなる。新聞が読まれなくなっていることは「広告」としての価値を失いつつあるということでもある。

メディアは「言論の自由」を標榜して、よく「私たちは広告ではない」などといっているが、独自ネタを取ろうとすれば自然と取材先から離れた価値判断を経て、自由に書くことは難しくなる。
ネタをくれた取材先には歯向かうことは常識的な人間であればなかなかできないわけで、とたんに「言論の自由」「広告ではない」という考えがうつろに聞こえてきてしまう(だから、新聞記者には非常識で人間的に終わっている人も多い)。建前と実態との間の乖離が妙に感じるのである。

個人的には別にスクープなどあってもなくてもいいと思っていて、公開情報や取材を通じて色々調べた結果、こういう枠組みだとわかりやすいねとか、こういう考え方が変だよとか、事実をベースとした考え方にどうアプローチするのかを考えたほうがいいのではないかと思う。

本来は多くの忙しい人に代わって、簡単にわかりやすく報道する、すなわち「世の中の出来事のダイジェスト」を伝えるという意味でメディアは存在するはずだ。こうしたあり方が面白いか面白くないかは別として、この本義を忘れて存在するメディアに果たして価値があるのだろうか。新聞に心底わかりづらい記事を書いているひとりの人間として、そこはかとない虚しさが漂う。

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