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ともだちの背中はもう手に届かぬほど遠く

人はだいたい幼稚園や小学校に入ると、そのうちともだちができる。
当時は何も気にせずワイワイと遊ぶだけの間柄だ。
時に勉強なんかで張り合う瞬間もあるけれども、それでもお互いできることや能力にそんなに大きな差はない。

いつまでもともだちは自分と同じように育ち、そして変わらぬ「横並び」の人生を歩んで楽しく笑える日がやってくるのだと、幼いころには信じてやまなかった。

曲がりなりにも大人になってみると、当然だがそんなわけはない。
横並びどころか、皆が自分の生きたい方向に走り出している。かたや研究者として海外へ行き、かたや起業し、かたやエリートサラリーマンとして活躍し、かたや世界を飛び回って自由に生き、かたや…かたや…と挙げればきりはない。

こうしたことを明確に意識したのは大学になったころだった。
同じ大学に進学した中学生のころの同級生(塾も同じだった)が熱心に勉強し、物理学で難しいことをいろいろとやっていたのだ。
話を聞いてもわかるようでわからない。「まあそうなのか」くらいの理解しかできないのである。
中学のころには同じ数学の、英語の、国語の問題を解いていた彼は、もう私の近くから遠く遠く、手の届かない世界に行ってしまったのだ、ということを強く意識させられた。
それから久しぶりに友達に出会ったときには決まってこの感覚が自分自身のなかを駆け巡るのだ。

一緒に水泳をして泳いでいた同級生は起業までしてしまった。もちろんまだまだスタートアップではあるけれども、それでも企業をして一つの事業に身を投じるだけの胆力は私にはない。「もう手が届かない世界に行ったんだな」と思う。

世界を飛び回っている大学の同級生もいる。彼は彼なりにいろんな葛藤がある様子ではあるが、はたから見る分には非常に魅力的だ。「自由でいいなあ、あんな人生はそうそう歩めまい…」と、貧弱な語学力の私は思うわけだ。物理的にも「手が届かない世界にいる」といっていい。

後輩でもエリートサラリーマンとして活躍している子がいる。小さなころは力も体の大きさも自分のほうが優れていたわけだが、年を重ねたいまになってそういうこともない。むしろ彼のほうが能力としては優れているのかもしれない。「小さなころはお兄ちゃんくらいに思っていたけれど、いまやもう学ばせてもらう側だな」としみじみ感じる。
わたしの手の中におさまっていたかのように感じていた彼は、いまや手が届かない世界をひた走っている。


だれもかれも、わたしにはもう追いつけない世界にいるのだ。


しかし、そんなともだちと不思議なことに出会う機会が人生にはぽつぽつある。
「もう手が届かない」「自分には到底至らない境地にいる」ともだちが、目の前で、わたしでもわかるような取るに足らない話をしているのである。このときほど妙な感覚にさいなまれることはない。

幼いころは横並びで同じように遊んで、笑って、それが楽しかった。だから大人になってともだちが「手に届かないくらい遠く」にいるとわかったときに「もう縁遠くなるのかな」と感じたものだ。

でもそうではない。手に届かないくらい遠くにいったともだちは、いわばみな自分の人生という旅に出ているのだ。
会えた時に彼らに旅情を訪ね、そして旅先の絶景や苦労を語ってもらうべく、私は「最近どうよ」と尋ねているのだ。「おれはこうだった」「ぼくはああだった」――と、各々が人生という旅のハイライトを語っているその瞬間にこそ、友を持った人生の喜びが潜んでいる。

だから、いまはただ誰もが遠く遠くにいって、自分だけの秘境に足を踏み入れた話を聞きたいと願っている私がいる。そしてそんな友を持てたからこそ私も「自分だけの秘境があらんや」と人生に思いをはせることができる。

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