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きっと今が一番暇で、そして一番青い

短いながらも自分の人生を振り返ったときに、ひとつ気づくことがある。それは、間違いなく年齢を重ねるごとに、やることも考えることも増えてきたということだ。

幼稚園なんてのはすこぶる自由である。私は自分の体のシルエットに合わせて床に木箱を置き、ひとりその中に入って天井を見ながらねっころがっていた記憶があるが、特に批判されることもなかった。

学校にいるころもさほど変わらない。まあ、勉強をしなくてはならないというのはあったものの、適当にこなしていれば別に文句を言われることはない。というか、勉強も一生懸命やらなくたって(文句は言われるが)許される空間である。

それが大学となれば、それが許されなくなって単位を落としたりして卒業ができなくなる。多少義務感が生まれてくるのはこのころであろうか。

次に、社会人になると、覚えることも増えたり仕事で疲れたりするが、1年目とかであれば一生懸命働けばそれでOKである。

しかし、2年目、3年目となれば例えば職を変えたり、後輩ができたり、仕事のうえでの役割もいろいろと増える。

それだけじゃない。もっと先々を考えれば、例えば結婚するひともいる。その次、子供ができたらなお忙しい。

子供が大きくなってきたと思ったら、次には親の介護が入ってきたり、ローンがのしかかったり、自分や配偶者が病気になったりと、いろんなことでてんやわんやである。

もちろん、自分たちの食い扶持のために、そうしたことの傍ら、仕事も一生懸命やらないといけない。言ってしまえば、遠い将来の問題だと思っていたものがどんどんと現実の問題として立ち現れてくるのである。

誰しも「今は忙しい」と言ってしまうし、実際そうなのだろうと思う。確かにみんな、忙しい。

こうして忙しくなっていく中で、ひとは「自分の夢が何か」ということに思いを馳せることもなく、毎日が過ぎていくようになる。

こうして、「安定」をいつの間にか追い求めるように生きて、そしていつの間にか老いていく。

夢の持つまばゆさが、いつの間にかわからなくなる。

だが、人生という長い道程をみてみると、これから来る日々の中で今この瞬間が一番暇な時期である、ということにも私はふと思いが至るのである。今こそ「何でもできる時期」であり、「夢を持つ時期」であるはずだ。

そして、いまになったからこそ「生徒・学生の頃って結構暇だったなあ、もっと何かできたんじゃないか」と考える。でも、当時は精神が幼かったせいか、私は毎日パワプロ10に精を出してしまったり、アニメを見るために夜更かしをしてしまっていた。

振り返ったあの瞬間は常に青々として、未熟であったのだ。逆に言えば、これから生きる自分のなかで、今が一番青いということでもある。

昔の自分に「なんであんなに暇だったのに、あんなにしょうもないことをしていたのだろう」という未熟さを悔いるときがこの瞬間も存在するわけだが、10年もすれば27歳の自分に対して「なんであんなに暇だったのに、あんなにしょうもないことをしていたのだろう」という思いを抱くのであろうと思う。

それが日々繰り返されて、人生は漸進的に改善していくのであろう。

人生という作品の完成のために、「暇」なるものを削り続けて己の肉体と精神とを磨き続ける日々がある。

そうしてまばゆい光を放つようになった己の人生を、人は「夢」と呼ぶのではないか。

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