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「きれいなおねえさんは、好きですか。」 そりゃ好きだ

「きれいなおねえさんは、好きですか。」

むかし、そんなキャッチコピーがあった。

でもよく考えると、普通の男なら「そりゃそうだろ」と思うに決まっている。男性はもちろん女性もそうだろう。

きれいなおねえさんには憧憬を抱くのが自然である。嫌いだという女がもしいるのであれば、そいつは単に僻んでいるだけで取るに足らない人間性しか持ち合わせていないから考慮に値しない。

では、「きれいなおねえさん」とは何か。女性に対して使う「きれい」ってなんだ、という話になる。

「美しい」とほぼ同義で私は考えているのだが、はてこれは一体なんなのだろうか。

そこで言葉の出番なのだが、美しさを抽象することは難しい。様々な「きれいなおねえさん」の顔を思い浮かべていると、次第にゲシュタルト崩壊のような様相を示し始める。

同じような話で、「好きな女性のタイプは?」という質問があるが、あの時に顔が○○で△△な形の…といろいろな条件を出し始めるものだ。

しかし仮にその言語化したものと全く同じ顔の人間が現れたとき、果たしてその人を好きになれるのかと言われると一概にそうとも言えないのではないか、と思う。

私は言葉の力を信じている人間の一人だし、軽い言葉が大嫌いではあるのだが、しかしどんなに重い言葉であっても表現できない何か、がある。

言語を超えたところに感知される何かがあるというのも、また事実だ。それは言葉による翻訳が出来ないもの、と言ってもいいかもしれないし、だからこそ言語化の努力は永遠に続いていく。

谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」のなかで、詩人が書くバラに関するどんな一遍より、一本のバラの方がよほど雄弁なのだ、という旨の一節がある。

「きれいなおねえさん」に関するあらゆる説明より、「きれいなおねえさん」そのものの方が「きれい」「美しい」ということを知るにはよほど雄弁だ。ちょうど、榮倉奈々という美のイデアを見たら「きれい」だと感じるのは人間の普遍的な感覚であるが、それだけですでに語りうるすべてのことを教えてくれているわけだ。

語らないという主張が、一枚の美しい写真のなかにある。

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