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人生の癖~私の場合は「現状の否定」だと思う~

人間には誰しも癖がある。手癖だったり口癖だったりそれは様々であるが、性格や物事の捉え方、人生の癖みたいなものもあると思う。

私自身、ふと人生で意思決定をしてきたタイミングを振り返ってみると、ひとつの「癖」があることに気づいた。
それは、現状の否定こそが己を動かしてきたということだ。

明確に意思決定をした最初の瞬間は水泳をやめたときである。詳しい話はここで書いているが、簡単に言うと水泳に限界を感じてやめたわけだ。
要は、「水泳は辛いから嫌」だから、やめるという意思決定をしたわけだ。

その次の明確な意思決定は大学受験であろう。中学三年生のころから実家の居心地の悪さを感じていた私はいつの日か実家から出るぞと考えていたわけだが、大学受験の折、自宅から通うことのできない距離にある大学を選んだ。
要は、「実家は居心地が悪くて嫌」だから、実家ではない場所に行く選択肢をとったわけだ。

それから新卒で入行した銀行をやめたときも、同じような意思決定のメカニズムだった。心底つまらない銀行業務に飽き飽きして夢を追う人生を歩むことに決めた。
まさに「銀行はつまらなくて嫌」だから、自分のやりたいことを仕事にしたわけである。

その後に入ったネットニュース専業の会社もそうだ。
給料が安すぎて生活の安定すらままならない状況で、未来を見据えることはできなかった。金がないと精神も徐々に貧しくなることに気づいた。
「貧乏は嫌」だからやりたいことをやれて生活もまあまあできる会社に入ろうと思ったわけだ。

私自身、いまでもふと不満が浮かぶことはある。文句を言いたくなる日もあるのだが、それでもなお現状を変革しようとしていないということは、実は否定するほど嫌なものはなくて、それなりに受け入れられる現実があるということでもある。

いろいろ勝手に決めてすごいねと言われることはあるのだが、人生の癖という意味で見れば、私自身が何かことを為そうとしたときは相当に否定したい現実がどこかにあったということでもあって、単なる現実の否定として決断に至っているだけだと私はとらえている。
それゆえに、耐えがたい現実は嫌だと思いながら決断できるところはありながらも、耐えがたい現実がなければ決断ができないという己の弱さもまた併存しているのだ。

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