見出し画像

当たり前のように家を出て家に帰ってくる日常に幸せはあるのかもしれない

大学のころの話である。
当時、塾講師のバイトをしていた。
ある日、塾の校舎長が飲みの席で、

「若いころは一生懸命仕事をしていたから、親が死んだときも仕事をしていたのだ」

と、まあまあ結構誇らしげな顔をして言っていた。

「おれはこれだけ仕事をしてきた、だからお前たちも―」
と、そんなことを言いたかったのだろう。バイトの身分でそこまで求められても困る、というのが当時の私の心境ではあったのだが、それは置いておこう。

たしかに、言わんとすることはわかる。仕事を懸命にすることは大事だ。
が、それは果たしてよかったのか、と考えると、どうにも首肯できないというのが私の意見だ。

齢50を過ぎて、努力を続けた自分の過去を肯定するためにも、そんな強い表現をしてみないと、どうにも報われない気持ちにさいなまれてしまうのか。
または、我々若者に喝のひとつでも入れたいと思って、強い表現を用いたのか。

何にせよ「自分が一生懸命仕事をしてきた」と言うためにもってくる例がそれなのかと思うと、実にむなしい気持ちになった。

結婚式と葬式が重なったら、葬式に行けという教えがある。
結婚式をした二人にはまたいつか会えるが、葬式は最後のお別れになるから、その人にちゃんと別れの挨拶をしておくべきだからだ。
最後の最後は「おめでとう」より「さよなら」のほうが価値がある。


少し前に、消防士をしている中学時代の同級生が結婚式を挙げた。
仕事が仕事だけに彼は背中が大きく非常に体つきがいいのだが、奥さんが非常にきれいだったこともあり、友人がずっとゴリラか何かに見えて仕方なかった。

で、本題はここからなのだが、途中の乾杯の挨拶だったか上司のひとが「こんなめでたい席でこのような話をするのもなんですが…」と前置きをしたうえで、こんなことを言ったのである。

「私たちの仕事は、朝に『いってきます』と言って、夜に『ただいま』と言うことが約束できない仕事です。だから、身の回りにある小さな幸せをふたりには大切にしていってほしいと思います」

生きることが当たり前で、命もかけず気楽に仕事をしている己の身にいたく残る言葉だった。

振り返ればとかく挨拶も適当になりがちな日常である。
いってきます、いってらっしゃい、ただいま、おかえり、と、こうした言葉たちに向けている意識はほぼない。
でももしかしたら「いってきます」は、最後のことばになるかもしれないのだ。
別れの挨拶だけで終わってしまえば、それは哀しい思い出になる。
さらに、今生の別れにすら接することができないということに自慢できるところなどどこにもなく、本来は別れの挨拶を最後にすること以上に哀しいことのはずだ。

日常にある小さな幸せというのは、別れを告げてから戻ってくる、という一連のサイクルの中にあるのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?