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本嫌いが本好きになるまで①

夏休みの宿題と言えば「読書感想文」であるが、私は幼年期、本が大嫌いだった。それだけに、私にとって読書感想文を書くとき、本の薄さが決定的に重要であった。

小学校の頃、読書感想文で親から「ベルナのしっぽ」という本を読むように言われたことがあった。
これは盲目の女性にベルナという盲導犬がいて、一緒に生活をするなかで愛情が芽生えつつ、最後はベルナが死んでしまう、という話だ。これには「一度として見えることはなかったベルナとの思い出が、盲導犬の死を通じて筆者の女性の目の前にはありありと『見える』」という感動があるわけだが、当時の私は「印象的な場面がなかった」という残酷な感想を抱いた。そこで、私はあとがきを読書感想文として仕立て上げた。
親はもちろん私を叱りつけたわけだが、当時の私からすれば「あとがきとはいえ、本に書いてある内容で読書感想文を書いているのに何が悪いんだ」と思っていたので、反省もしていなかったのである。

そんな調子であるから、中学の時も引き続き本は嫌いだった。
唯一ちゃんと読んでいたのは、今は亡きさくらももこさんのエッセイだけ。中学生の頃、朝の読書の時間にさくらももこを読んで一人で笑いをこらえつづけていた。彼女の本は、読書という行為を初めて面白いと感じた瞬間であった。

この読書嫌いが変わったのは、高校の頃であった。高校に入って二年目、月に一回読書感想文を出さなくてはならず、しぶしぶ入った本屋で「今、売れ筋!」的な感じで表に出ていた二冊の本を買った。
そのうちの一冊が、中村文則の『遮光』。買った理由は小学生の頃同様に薄いからだった。
まずはページ数を確認し、百数ページ程度と読みやすそうだ。
「さっさと終わらせよう」――そう思って読み始め、手を止めたのは48ページ目だった。

「私は男に、取り敢えずカーテンを閉めてくれと頼んだ。後ろから感じる太陽の光が、うっとうしくてならなかった。が、男はその願いも、聞いてはくれなかった。ここには窓はないと、ただそう繰り返すだけだった」

「この主人公には一体、何が見えているのだろう?」―そう考え出したとき、私は私の周りにある現実が揺らいでいくのを感じた。
まるで「後ろから感じる太陽の光」のように、自分には見えていない世界がどこかにあって、自分にしか見えない世界があるのではないか。
そもそも何故私は「自分が見ている現実」 というものが他者によっても共有されていると思い込んでいたのだろうか。
そして同じように、何故他者は私に同じ現実が見えているというコンセンサスがある上で話をするのだろうか。
どこにもそんな証拠はない。
ではなぜ、「一般市民」はそのことにすら疑問を抱かないのか?自分には見えていないものを見えているという人間を「異常者」として切り捨てる、その行為のどこに絶対性がある?
感覚的に、自己の正しさを”信じ込んでいる”だけなら、それは宗教と同じではないのか?
自己内部の感覚という名の宗教を人間は信仰しているに過ぎないのではないか?
――と、そんなことを思ったのである。

見えない世界をなんとか言語化する営みが文章を書くという事なのだと、このとき初めて私は直感したのだ。(つづく)

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