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金を積まれてもできないことがサラっとできちゃう人は人間性がすげえのかも

お金を単に積まれればなんでも頑張れるほど世界は単純ではないし、何ならお金を積まれてもできないこともある。

足元では至る所で戦争が起きている。兵隊だけではなく、自らの意志で戦うことを決めて戦地に赴き、そして命を落とした方々も多くいるのだ。かつて日本でも特攻隊の方々がいたが、上からの命令で飛行機や人間魚雷で命もろとも敵に突っ込んでいった人たちが実際にいた。

こうしたことを「10億円やるからやって」と言われても、「はいわかりました」と唯々諾々と受け入れる人はそう多くはあるまい。

多くの逡巡がそこにはあるわけで、少なくとも今の私であればお金を積まれて死ねと言われても「うーん」と悩むだろうと思う。叶えたい夢もあるし、なりたい姿もあるからだ。

はて、何が人を動かすのだろうと考えてみると、お金とは無関係に存在する意志のようなものなのではあるまいか、という気がする。
それも自分一人ではなく、自分より大きなものに対する意志である。

お金を積まれるわけでもなく命を賭していった人たちは、己の将来や未来の夢と自分よりも大きなものとを一瞬でてんびんにかけ(もしかしたら本人は比べてすらいないのかもしれないけれど)、そして自分より大きなものを選んだのであろう。個を顧みずに公に思いをはせることができる、人間性というか倫理というか道徳というか、そういうものが己を突き動かしたのだろうと思う。

たとえ死ぬことがわかっていても「これならやってもいい」というものは、だれにでもあるものではない。そして人生を通じてそんなものに出会えることのほうがまれで、ほとんどの人は(死ぬか死なないかは別として)命を賭してでもやれること・やりたいことに出会うこともなく、寿命というものがいつの日か尽きていく。「葉隠」の作者のように畳の上で死を迎える。

そうしてひとは「こんなことをやっておけばな」と死ぬ間際になって「後悔」という形でやりたいことに出会うのではあるまいか。
それだけに、生きることを溌溂とさせるには、そうした「仮に死ぬとしてもやれること」に出会うことが実は大事なのであり、そこから人生は、死に向けて準備を続ける日々として重みを増すのだ。

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