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変わりゆく日常への一瞥は

新型コロナで世の中が大きく変化したとはよく言われているが、振り返ってみるともう3年くらいすったもんだを続けながらいろんなものが定着したと思う。

多くの企業で自宅勤務やオンライン会議が導入されて久しい。
企業の上役はああでもないこうでもないとそれらしい理由を並び立ててオンラインミーティングや時差出勤などに抵抗を示してきたわけだが、コロナになってからあれよあれよという間に導入した。今や仕事の風景が変わったという人も少なくあるまい。
夏目漱石は「日本の現代の開化は外発的である」と主張したがまさにその通りで、周りの環境がいろいろと変わってから中身が変わった好例だ。

店の営業時間も変わった。
いつも帰り際に寄っていた店がいつの間にか閉まっているなんてことは珍しくなくなった。時間通り営業することが当たり前になっていた自分の思考に気づかされる。
目の前の日常が環境化、いわば「当たり前のものになる」ということがどれだけ恐ろしいか。その発想がいかに人の危機感を鈍らせるかを痛感する。


かたや、変わらないものだってある。
ものを買う人の列は変わらない。
資本主義というものは人の「ほしい」という欲求に強く支えられたシステムだ。
その「ほしい」という欲求が人を購買活動やサービスの消費に向かわせ、そしてその対価として金がぐるぐるといろいろなところに回ることで、健全に機能する。それが回らなければ機能せず、自動的に淘汰されていく。
ものを求める人々の足が遠のくことのない限り、その業界がなくなることはない。だからいまだに資本主義というシステムも変わっていない。

アホみたいだが、月の大きさは変わらない。地球の自転の方向も変わらない。いきなり逆回転しはじめようなら大変なことである。
布団のぬくもりも変わらない。
毎日飯を食うという事実もまた変わらない。

社会全体が巻き込まれる騒ぎになったのはコロナだけではない。
東日本大震災はその典型であろうが、ほかにもリーマンショック、バブル崩壊、オイルショック…挙げればきりはない。キューバ危機なんかも危なかったのだろうか。

オイルショックやキューバ危機の時代には私はまだこの世に存在していなかったから肌感覚としてはわからないが、こうした問題が今回だけではないのは事実だ。

そのいつであっても、こうした変わったところと変わらないところが常に共存していた。
逆に言えば、ここまで歩んできた日常の中にあっても、すべてが変わらなかったわけではないということでもある。
漸進的であれ、そこには変化があった。

では、その変化を知覚できていたのか。
しかとその変化に目を凝らしていたのだろうか。
ひたひたと有事へと近づく日々の中で、何を見ていたのか。
終わりに向かいつつある有事のなかに、また別の有事の種がどこかにある。だからこそ、顧みるべきは日常に対するその一瞥なのだと思う。

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