推し活動とガチ恋の違いについて

はじめに

まず、この文章を書くにあたり私の立ち位置を説明しようと思う。
私には“推し”がいる。彼は、アニメキャラのようないわゆる2次元の非実在人物ではなく、生きている人間であり、頑張れば触れ合えることのできる存在である。
私は「推し」という言葉が、概念がこのインターネット社会に溢れる前から彼のファンであり、ファン活動を続けている。彼が雑誌に載ったらその雑誌を読み彼の言葉を解釈し、彼のラジオを聞き彼の人柄に好意を持ち、時には彼がイベントに出演したらそのチケットをファンクラブ最速先行で入手しイベントに参加し彼に声援を送っている。
推しを推し始めてからもう干支が一周した。推しを推し始めたときには“推し”という概念が無かったので私は今も彼のファンであるとは思うのだが、ここは便宜的に推しと表現する。
私の推し活動は、時には「ガチ恋」とカテゴライズされることもあるかもしれないが、私は彼を推しとして解釈し続けている。
そんな私から見た、現代の“推し社会”と“ガチ恋勢”についての仮説を語っていきたいと思う。

推しについて

私は、はじめてインターネットに触れてから干支が2周したと言っても過言ではない程度にはネット活動をしている。
先述の通り私が現在の推しに出会った頃、推しという概念は存在していなかった。
私の記憶にある限りでは、私が“推し”という言葉に出会ったのは黒子のバスケ一期の放送当初であったと思う。(蛇足であるが、この作品の緑間真太郎というキャラを好きになり、推しという概念に出会い、そして2次元キャラでの初めての推しが彼であった)
私は当初、推し(とてもわかりにくいので今後彼のことを推し君と表現する)を推しと呼ぶのに抵抗があった。推しという言葉に出会う前から好きだったのであくまでファンであったのだ。しかし、現在は面倒くさくなってしまい推し君を推しと表現している。しかし、多分「推し」の概念に入るような好きとは違う好きかもしれない。
私にとっては、「推し活動」とは「ファン活動」とほぼ同義であると思ってほしい。


ガチ恋について

近年とても多いのが「推しの炎上」と「そのファン(推し活をしている人間)」による推し擁護である。
ファン達は度々、盲目的に推しを擁護する。
明らかに推しが悪い場合であってもだ。
「推しちゃんは悪くないよ!謝れて偉いね!」まるで幼稚園児に言い聞かせるように推しを肯定し擁護する。
その擁護には「恋愛感情」、いわゆる「ガチ恋勢」が多く絡んでいるものが散見される。
ここで言うガチ恋勢とは、推しに恋愛感情を抱き、ファンと推しという関係以上の可能性を見出し、推しを否定する存在がいたらその人にクソみたいな罵詈雑言を浴びせ、時には推しに恋人ができた際に切れ散らかし時に当人の5CHスレを荒らし、本気で推しと自分が結婚できると可能性を信じている人間のことであり、性別は関係ない。


推し活動勢とガチ恋勢との違いについて


ガチ恋勢と言われる存在は、推しに恋愛感情を持っている。ファンとガチ恋との違いは、私は「画面の向こうの存在との接触の可能性を感じているか否か」であると考えている。

私には推し君がいるが、それはアニメオタクの間でのみ通じる推し君である。一般人に「誰のファンなの?」と聞かれたらすごく困る。困らないけど。その際の対策用と言ってはおかしいがもう一人好きな芸能人がいる。彼は最近結婚した。私は彼のファンを25年やっている。ぶっちゃけ、ショックでないと聞かれたらショックだが彼は彼で彼の人生を歩んでいるし私の人生には彼がいたが彼の人生には私がいない、ただそれだけのことであると考えている。でもやっぱりショックではある。
話は逸れたが、初対面の人との会話になると大抵「芸能人で誰が好き?」という話になる。おばさんとの話はほぼこれ対策でいけると言っても過言ではない。その際好きな芸能人なりオタク相手だと推し君の名前を出すが、ほぼこう返される。「へ〜。でも〇〇君結婚してるよね?」(ちなみにあえて言うが推し君は結婚疑惑が出ているが結婚しているとは公言していない。推し君が未婚宣言をしている限り私は彼を信じている)
これはファン=恋愛感情という偏見が如実に表れていると思う。
大きい声で聞きたいが、既婚者のファンだといけないのか?推しが結婚して誰かの配偶者になった時ファンを辞めなくてはいけないのか?私はそうは思わない。例え推し君が既婚者だとしても今の推し君という人間を作り上げたのは配偶者さんであり、むしろ推し君くらいの人間が結婚してないのおかしくない??位には思っている。推し君の人間性を見出だせてない人間しか周りにいないわけがない。結婚しててくれ…推し君…いやしてたらショックだけど…どっちなんだろう…。


推し活動勢はあくまで画面の向こうの推しに対して好意を抱いている。なので推しと触れ合ったり(この場合の触れ合いとは握手会での物理的な触れ合いではなく心理的な触れ合い、つまり推しがこちらを認識して自分を個として扱い特別な感情を抱いてくれるということである)することに期待をしていない。
推しの顔を見て「かわいい」といい、推しの言動を見て「尊い」と言う。推しが可愛いことにお金を出す。推しが解釈一致なことに価値を見出しているのだ。
私の推し君は一度YouTubeで配信をした。その際私はスーパーチャットを飛ばした。推し君はネット活動にとても疎く、Twitterすらスタッフに更新を任せているため推し君に直接スパチャを飛ばせるのは後にも先にもあれきりだろう。(配信をしたのは昨今のコロナの影響でイベントが中止になったからである)
しかし私はそのスパチャが読まれなくても、まして配信後に気づかれなくてもいいと思っている。
※ちなみにそのスパチャをする際にクソでか感情がすぎて長文になってしまい最低金額が500円だった。クソでか感情にお金がかかると知って驚いたのは言うまでもない。
私はその配信に価値を見出し、動いてる推し君が尊いと思いスパチャしたのだ。スパチャによる認知など期待していない。実際読まれたらすごく嬉しいが、(ラジオへのお便りも読まれたらを期待して送っているがそれと似たような感情である)読まれたら嬉しいだけであり私と言う人間を覚えてほしいと思って読まれたいわけではない。つまり、私は推し君からのリターンは推し君が生きている事だと思っている。画面の向こうの推し君が笑っているだけでスパチャのリターンになると思っているのだ。

対して、ガチ恋勢のスパチャには重みがある。(あえて言えがこれは私の偏見であり真理ではない)
ガチ恋勢はスパチャを読まれるために金額を吊り上げる。
Vtuberはそれが収入源になるため、時には〇〇円以上のスパチャしか読みません/名前は読みませんという行動をする者がいる。それがより認知への誤解を招いていると私は考えているがそれは余談である。
より高額のスパチャを送るほうが認知されると勘違いするのだ。
認知されても接触は出来ないという現実から頑なに目をそらすガチ恋勢がたまに哀れに思う。

推しはあくまで画面の向こう側にいるから推しなのである

ガチ恋勢とただの推し活勢の違いは、まずは画面の向こうの人間はこちら側の人間に好意を持たれるようにと本来の自分を隠し演技をしているということに気がついているかどうかが1つのラインになると思われる。
画面を飛び越えてこちら側(この場合のこちら側というのはあくまで精神的な意味であり、握手会で触れるなどの物質的な意味ではない)に入ってこない存在を推していることが推し活であり、こちら側の世界に入ってきて私達と接触を持ってくれるという期待をしてしまう心理がガチ恋というものではないか、と私は考える。

今年芥川賞を取った『推し、燃ゆ』にこのような一文がある。
『アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。』
この主人公はガチ恋ではなく推し活をしていた。そして、ただの人になった(画面のこちら側の存在となってしまった)推しを推しとして解釈できなくなってしまったのだ。この主人公の推しの思考に私はとても共感した。人でない推しを推すことが推し活であり、人としてみてしまうのがガチ恋なのである。

彼ら(ガチ恋勢)にとってスパチャとは認知される手段であり、推し活動の一種ではない。
彼らは推しを推すためにスパチャをするのではなく、推しに認知されるため、要するに自分への物理的なリターンのためにスパチャをするのだ。
彼らは常に自分本位で生きている。
だからこそ彼らは推しが結婚した際に切れるのかもしれない。“こんなにスパチャしたのにリターン(結婚)が無いなんて”。彼らの辞書には“推しが生きているだけでリターン”の文字が無いのだ。

最後に

私はガチ恋勢とは分かり合える気がしない。
ガチ恋勢は常に画面の向こうの人間をこちらの人間と思い愛しているからだ。
私は画面の向こうの人間は画面の向こうの人間として推し続けることしかできない。
コンテンツとしての推しが推しでいる限り推し活は続けようと思っている。
けしてコンテンツを一人の人間として見てはいけないのだ。その瞬間に推しはガチ恋対象に成り下がってしまう。

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