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目に焼き付いて離れない、筆舌に尽くし難い映画『バビロン』に出会った

目に焼き付いて離れない作品、いうものが存在すると思う。
好きか嫌いかと言われても答えられない。でも、間違いなく、今もこれからも目に焼き付いて離れない作品。どんな感情を向ければいいのかわからない作品。
『バビロン』は私にとってそんな作品だ。

あらすじはこんな感じ。

1920年代のハリウッドは、すべての夢が叶う場所。サイレント映画の大スター、ジャック(ブラッド・ピット)は毎晩開かれる映画業界の豪華なパーティの主役だ。会場では大スターを夢見る、新人女優ネリー(マーゴット・ロビー)と、映画製作を夢見る青年マニー(ディエゴ・カルバ)が、運命的な出会いを果たし、心を通わせる。恐れ知らずで奔放なネリーは、特別な輝きで周囲を魅了し、スターへの道を駆け上がっていく。マニーもまた、ジャックの助手として映画界での一歩を踏み出す。
しかし時は、サイレント映画からトーキーへと移り変わる激動の時代。映画界の革命は、大きな波となり、それぞれの運命を巻き込んでいく。果たして3人の夢が迎える結末は…?

https://babylon-movie.jp/

正直、もっと熱量を持って語れる作品はあるし、逆にnot for meであったという意味で「なんて作品だ!」と言える作品もある。
しかし『バビロン』は、そのどちらにも属さないまま私の中に住み着き、存在感を放っている。
今回はそんな『バビロン』の主要人物3人に想いを馳せながら、感情の整理も兼ねて書いていく。

※以下、映画本編に触れる箇所あり


捧げるにはあまりにも汚い、しかし真実である残酷さ

『バビロン』は、華やかに見える映画業界の裏で苦しい思いをした人たちや犠牲となり散っていった人たちを描いている。
ある種の鎮魂歌と言えるが、彼らに捧げるにはあまりに汚く、残酷な作品だ。しかし、多少のフィクションが含まれているとしても、これが現実だったのだと無知な私は殴られた気分だった。
舞台は1920年代、たった100年前の話である。

この作品ではR-18G描写が多数あるほか、人間の気持ち悪さ・気味悪さも描かれている。気にならないと言えば嘘になるが、私はそういった描写のある作品も比較的観れる方だ。
しかし『バビロン』は何かが違った。久しぶりに目を背けたくなった。というか実際、背けはしなかったが何ヶ所か目は細めた。視界に入る情報量を減らすためだ。こんなことは本当に、私の中では滅多にないことだ。

生まれつきのスターは永遠には輝けなかった

ネリーは招待されていないパーティー会場に堂々と潜り込もうとする、破天荒で度胸のある女性だ。マニーの優しさで会場に潜り込んだ後も「ドラッグある?」と隠さず聞き、会場内では派手に踊る。パーティー会場で踊るネリーには、マニー同様目を奪われた。劇場等で見かけるポスターもそうだった。ネリーが目を閉じてあの赤いドレスで踊る姿は言葉にできない美しさを孕んでいて、彼女の言う“生まれつきのスター”という言葉にも納得する。
一気にスターダムにのし上がった彼女だが、久々に会う友人マニーに声をかけられれば変わらぬ笑顔で応え、精神病院にいる母とは緊張の面持ちで会い、帰り道に弱音を吐く。その姿はパーティー会場で見せたものとは違い、どこにでもいる普通の女の子のものだった。
私は昔から、仕事のできる人や自分に自信を持っている人、堂々としている人に憧れる。ネリーはまさにそんな存在で、そこが魅力で、だから惹かれていくのだと思った。
しかし違った。彼女も1人の人間で、表には見せない一面がある。しかしそこでみせる表情もまた彼女の魅力であり、憧れた。

トーキー映画が台頭し女優として干されていっても、彼女の軸は変わらなかった。
尻を堂々と触る男、それを受け入れる女、くだらないジョークの言い合い。その世界で生きていくためには必要だといわれるあらゆること。返り咲くためにそれらに合わせることを、我慢することを、彼女はしない選択を取った。反吐を吐き、中指を立て、そのままの自分でいることを選んだ。その結果、完全に業界で干されることになったとしても、彼女はそれまでより胸を張って歩けるようになっただろう。
軸を変えずに生きる選択を取ったその姿もまた、私の憧れるものだった。

終盤、ネリーとマニーは愛を誓い結婚の約束をする。
偶然居合わせたテレビマンに「結婚する!」と宣言しマニーと顔を合わせるネリーの横顔は、素朴な美しさで溢れていた。それは、赤いドレスを身にまとい派手に踊っていた時とは何か違う美しさだった。
幸せな未来を誓ったにもかかわらず、彼女はマニーのいないうちに車を降り、その場から消える。
「人生は最高」と鼻歌を歌いながら闇の中へ溶けていく最後の姿は、呆気ない。しかし、やはり、目を奪われた。
我々は、彼女がその後どのような選択を取ったのかわからないまま、数秒映る小さな新聞記事でその死を知る。
何度も何度も私の目を奪い憧れた彼女は、静かに輝くのをやめた。
最後の時、彼女は何を思い、何を背負い、あの暗闇へ消えていったのだろうか。

時代が終わった彼へ、死の間際に差し込んだ救いの光

ジャックはサイレント映画界における大スターだ。しかしそんな彼も、トーキー映画の波には乗れなかった。可能性こそ感じていたが、そこに彼の席はなかった。

エリノア曰く、ジャックの時代はただ“終わった”だけ。
観客が彼の主演作を見て笑ったことに理由などなく、ただ、終わったから。
なんて残酷な理由だろう。
トーキー映画の時代となり、声で干される方がまだマシに思える。

その後ジャックは興奮した様子の関係者から電話で仕事の話を受けるが、自分の時代が終わったと言われた彼にとってそれはなんとも辛いことであっただろう。
「俺が最後なんだろ? 出演するから答えてくれ。その作品はクソなんだろ?」
誤魔化すことをやめて彼の言葉を肯定する電話越しの彼に同情した。声のトーンから察するに彼だって、わざわざそんなクソ映画の主演を依頼など、したくなかっただろう。

そんな中、ジャックのもとへジョージが自殺したと連絡が入る。
ジョージは女に振られるたびに泣いたり部屋に籠ったりする、正直面倒な男だ。しかしジャックは、そんな彼を毎回励ました。
ジャックがそこまでジョージを気にかける理由は、ジャックの言葉で察せられた。ジョージはおそらく、ジャックのことを売れる前から認めていた人物で、ジャックの数少ない(もしかしたら唯一の)理解者か、心置きなく接せられる人だったのだ。
しかし周囲の人々はジョージのことなど全く気にしていなかった。彼の死を悼んでも共有できる人がいない。何と苦しいことか。

本当に自分の時代は終わったのだと悟った彼は、静かにパーティー会場を抜ける。途中すれ違ったボーイにチップを渡す際、ただの会話のネタだったのかもしれないが、彼は「今までで1番多く貰ったチップの額は?」と尋ねた。
「50ドルです」
「誰から?」
「貴方です」
このやりとりが、とても好きだ。
ボーイにとっては顔を覚えられていなかったと悲しいシーンかもしれない。しかしジャックにとっては、嬉しい言葉だったのではないだろうか。

エリノアはこうも言った。
「今撮っている映画に関わった人物はいずれ、必ず死ぬ」
「50年後、貴方が死んだあと、どこかであなたの映画を見た誰かがまた、銀幕に憧れを抱くかもしれない」
「私たちが死んでも、映画は残る」
今、この時、ジャックの時代は終わった。しかし作品は残り続け、半永久的に彼の姿も残る。遠い未来で、誰かが銀幕に映るジャックの姿に憧れを抱き、ハリウッドへ足を運ぶかもしれない。今目の前になくとも、いつか自分のしたことが誰かの心に残るかもしれない。ただ、それは希望的観測であり、今のジャックにとって救いにはなりえなかった。
だからこそ、ボーイの言葉は救いの光だった。
自分が何かしたことが、今、目の前の人間の中に残っている。それをリアルタイムで実感できる。これ以上ない幸福だ。「これからは君たちの時代だ」と階段を上がる彼は、笑顔だった。

ジャックの死は孤独で静かなものだ。その最後はカメラすらとらえない。ドアが閉まりきっていれば、我々は音だけで彼の最後を想像しなければならなかった。なんともにくい演出である。
わずかに空いたドアの隙間から見えるのは、彼が銃を片手に浴室へ向かう姿。
そして銃声と、壁に飛び散る血。
自ら人生の幕を閉じた彼は、どのような表情を浮かべ、どのような気持ちを抱えていたのだろう。

理想であり、現実であるマニー

中心人物3人の中で、マニーは1番観客に近い位置にいる。
銀幕の世界に憧れ、夢を抱き、近づくために動くもなかなか実らない。
衝撃は本編開始からたった2~3分のこと。マニーは象の排泄物を頭から浴びる。避けたくても、坂の上の屋敷まで連れて行かなければならないのでできない。
(このシーン、最初は加工かと思ったがカメラまで汚れていたということは本物か、本物に似た何かをかけられていたのだろうか。)
道中、警官からはいぶかし気な目で見られ、パーティー会場でも上司からは雑に、まさに“ゴミ”や“クソ”のように扱われ、未来はいつまでも明るくならないままに思えた。
しかし、彼の人生はネリーとの運命の出会いにより大きく変わる。

大スタージャックの助手から始まり、マニーは夢の世界で地位を確立していく。しかし、彼の憧れた人生は本当にこれなのかと疑問を感じた。見栄えを気にする重役の指示で黒人トランペット奏者シドニー(ジョヴァン・アデポ)の顔をさらに黒く塗らせ、不遇な時代からの友人ネリーを返り咲かせるために窮屈なパーティーへ無理やり呼ぶ。
かつて自分が受けていたような、“相手を雑に扱うこと“が、彼の憧れた人生なのだろうか。

シドニーは結局、撮影終了後「2度と来ない」とスタジオを去り、その後はどこかの小さな店で演奏に参加する姿が映る。
「ここで演奏できて本当に嬉しいです」
彼はそう語ったし、私の目にもそう見えた。

物語終盤、ギャンブルで作った借金を返さないと酷いめにあうと嘆くネリーに助けを求められたマニーは、勘弁してくれと思いながらも彼女に手を貸す。何度も救いの手を差し伸べては叩き返されてきた彼は、そこで完全に彼女と縁を切ってもおかしくなかった。しかし彼の優しさが、ネリーへのどうしようもない愛が、そうさせなかった。

時は流れ、マニーは妻子を連れ、かつて務めていたキノフィルムズ・スタジオの前までやってくる。しかし、隣に立つ女性はネリーではない。
闇の中へと溶けていった彼女を見つけられなかったのかもしれない。見つからなかったのかもしれない。だとしても、最終的には、彼は人生の成功を捨ててまで愛した女性ではなく、普遍的な女性を選んだ。
“観客”に戻った、平凡な人生にみえる。しかしそれをかたどっているものの中には、あの日あの時ネリーやジャックと知り合ったことで過ごしてきた日々も含まれていて、それは決して平凡ではない。
彼はどこにでもいる普通の人間に見えながら、間違いなく“何か大きなものの一部”になった、特別な時を過ごした人間であった。

「ハリウッドでは夢がすべて叶う」

『バビロン』の予告に出てくる言葉だ。
銀幕の世界へ憧れを抱く者にとっては、真正面から受け取りたくなる魔法の言葉だろう。だが、魔法は永遠ではない。
ネリーやジャックのように圧倒的な輝きを放ちながらも変化の波に乗れずに消えていった人々や、華やかに見える世界の裏で“ゴミ”や“クソ”のように扱われ死んでいった犠牲者がいる。彼らがいなければ、“今の時代”はない。夢を叶えたその代償にしては、特に後者は重すぎやしないだろうか。
我々は、作品はフィクションであったとしてもそのベースとなったリアルが確かに存在したことを、忘れてはならない。

おわりに

長々と書いてきたが、『バビロン』について、主要人物3人について思うことを全て書き出せたかと言われると、おそらく全てではない。感情は整理できないまま、彼らはこれからも、私の中に存在し続ける。

この作品は『雨に唄えば』を観ているとより面白いそうだ。
まだ観たことがないので、これを気に観てみようと思う。

それから、1920年代のハリウッドやネリーのモデルとなったクララ・ボウなどについて、公式サイト内のコラムに書かれているので、ぜひ読んで欲しい。

映画『バビロン』公式サイト


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