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必死に小難しい文学や哲学を通して自らを救済するのに費やした膨大な時間

 昨日、昔の職場の後輩と飲みに行った。彼は五歳くらい年下で、ちょうど僕が五年くらい前に抱えていた葛藤や思想のようなものと現在進行形で正面から向き合っている。自分と世間との感覚の誤差だとか、行動と思考とのバランスの取り方だとか、その他諸々だ。人間の存在意義だとかその手の哲学的な話をしているうちはまだ良かったのだけれど、アンチナタリズムなんて単語を出された時には少し困惑した。悩める若者に文学や哲学を不用意に勧めるものではないとちょっと反省した。
 数年前、僕は自分が個人的に影響や感銘を受けた本や映画なんかを彼にあれこれと教えた。先輩風を吹かして小難しいものを色々と吹き込んだ挙句、最終的には南海キャンディーズ山ちゃんの『天才はあきらめた』の文庫本とタランティーノの『パルプ・フィクション』のDVDを進呈した。このチョイスに関しては悪くなかったと自負しているのだけれど、自分が間接的に相手の人生に大きな変化をもたらすような責任からは逃れたいものである。
 ドラマ版の『Sex and the city』の中で、恋愛コラムを新聞で書いている主人公が、自分の助言で離婚した知り合いからその報告を受けて困惑する場面がある。ちょっと参考にされるのではなく額面通りに行動を起こされたからだ。僕ももちろん自らの発言には責任を持っているつもりだけど、あまりにも過大評価されると梯子を外したくなってしまう。ちなみに僕は看過されやすい高校生だった頃、バイト先の二十代前半のお姉さんに勧められてドラマ版の『Sex and the city』を全シーズン見た。おかげで一部の女性が並々ならぬ情熱を靴に注いでいることを知っているし、クリスチャン・ルブタンやマノロ・ブラニクといったブランドを未だに覚えている。

 数年前に比べると、世間はいわゆる陰キャとか根暗と呼ばれるような人種に対して寛容になった気がする。オタクだとか人見知りという属性が特に珍しくもなくなり、むしろマジョリティにさえなってる肌感覚がある。昨今の日本における流行歌の歌詞やドラマ、漫画、映画、あるいはYouTuberやインフルエンサーなどのあらゆるコンテンツからそれを感じる。
 現代における当たり前が「恥ずかしい」とされていた時代に、僕は肩身を狭くしながら生きてきた。必死に小難しい文学や哲学を通して自らを救済するのに費やした膨大な時間は決して無駄ではなかったが、そんなものが必要ないに越したことはないとも同時に思う。まあきっと現代の若者には僕の想像もつかないような苦悩があるのだろう。知らないけど。


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