見出し画像

世間でトレンドになっている考え方や価値観に興味が薄れてきている

 さっきまでスターバックスのコンセントがある席でマックブックを広げて作業をしていた。買った時には最新だったその個体は2015年のモデルで、まだリンゴが光る。僕は口と顎に髭を蓄え、オーバーサイズのシャツとレディースのパンツを合わせ、日本では発売されていないコンバースのチャックテイラーを履いていた。
 この手の人間をかつては軽蔑していた気がする。しかしどこかの時点から「スタバでマックブックをドヤ顔で開いているヤツ」という批判が広く世間に認知されて一般論と化し、逆に「放っておいてやれよ」という気持ちになったのだろう。特にそこに違和感を覚えていなかったような連中までもが鬼の首でも取ったかのように便乗してくると冷めてしまうものだ。そして、一周回ってそれをやってみたくなったりするのである。大体そのような動機で僕はクラッチバッグを買ってみたし、髪型をツーブロックにもしてみた。ちなみにこのnoteに初めて書いた記事では髭を揶揄している。いずれも何年も前の話だけれど。あえて全ての物事に逆張りしているつもりはなく、単に何事においても自分で価値判断をするように努めているだけである。そして、それは時間の経過と共に更新され続けていく。

 しかし世論には滅法疎い。ちょっと前から「蛙化現象」という言葉をよく耳にするが、僕はその意味を知らない。何となく前後の文脈から想像はつくし調べればすぐに分かるのだけど、自分には関係のないことのままにしておこうと考えている。「共感性羞恥」という言葉が流行った時にも同じように感じた。そういう便利そうな言葉に自分を当て嵌めて思考停止していると、自分の感情や考えを自らの言葉で語る力が弱まるからだ。というかそもそも、世間でトレンドになっている考え方や価値観に興味が薄れてきている。自分のことしか考えていない。
 もちろん現代社会で生きている以上は、文明に一切依存せずに完全に独立して生きるのなんて不可能なのだけれど、なるべく自分中心に物事を捉えるようにしている。その方が健康だからである。それで放っておいてもらえれば良いのだが、まあこの国ではそうもいかない。日本人は無意識のレベルで自らを下げる習慣があるので、ただフラットなだけの人間も相対的に傲慢だと見做される。定時で帰る人間は冷たい目で見られるのだ。
 あるいは社会的に成功すればこの辺りのストレスも軽減されるのかもしれない。小説家の中村文則はデビューから三作目まで、読んでいて心配になるくらい凄まじいエネルギーで自分自身(内側)を掘り下げているのを感じるが、芥川賞を取った以降の作品では明らかにその矛先が社会(外側)に向かっている。また全く別の例として、有名企業のCEOなど規格外の成功者たちはどこかの時点から皆こぞって宇宙開発に乗り出す。もはや社会なんて枠を超え、地球そのものに愛想を尽かしてしまうのかもしれない。

 この支離滅裂な文章から分かるように、僕は極めて凡人である。他人に髪を切ってもらって他人がデザインした服を着ている、誰かのセンスに依存した社会的存在に過ぎない。自分が特別だと思うことほど凡庸な考え方もないだろう。そして、それらを全て踏まえた上で「知らねえよ、馬鹿野郎」と開き直るまでがおそらくテンプレートである。もしかしたら、ここに書いたような一連の逡巡を総じて蛙化現象と呼ぶのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?