見出し画像

そこから先を真剣に聞く気が一瞬のうちに失せる

 最近色々なメディアで「解像度」という表現を見たり聞いたりするようになった。自分の考えや計画・構想などを他者にも伝わるように言語化したり具体化することを「解像度を上げる」と表し、逆に曖昧で抽象的な状態だと「解像度が低い」とされるのだ。調べなくとも文脈で容易に意味の察しがついたので、単に一つの例えとして秀逸だと初見では感じた。誰もがスマホやパソコンでなんらかの画像を毎日見ているのだから、ピクセル数や画素数や解像度を混同していようとも意味はなんとなく伝わる。
 しかし、あまりにあちこちで多用されているのでどこかの時点から気持ち悪く感じ始めた。こういう流行りものの表現を明らかに自分では考えついていないであろう人が無自覚に自然と使っている場面に出くわすと、そこから先を真剣に聞く気が一瞬のうちに失せる。解像度を気にするのも良いが、そもそもの写真・画像の構図や内容にもっとこだわってくれと言いたくなる。

 少し前からオンラインで日本語教師を始めた。過去にもコロナ期間にやっていたのだけれど、最近になってまた再開したのだ。僕は教師としての資格は持っていないものの英語がある程度喋れるので、日本語を学習している外国人にとっては格好の会話の練習相手となる。プラットフォームが指定する教材を使った授業もするのだが、大半は雑談形式でのレッスンとなるのであまり「先生」という感じではない。実際に僕は"Tutor"という肩書きで、ニュアンスとしては家庭教師とか指導員くらいの意味だ。
 始めた動機はちょっと不純で、空き時間を有効活用しながらささやかな副収入を得つつ、日本語を教えるという体で自分の英語力を維持したかったのである。良心の呵責がなくはないと言えば嘘になるとは言い切れないと断言は出来ないと言っても過言ではない。相手が上級者レベルだと日本語で日本語を説明するのだけれど、中級者以下の場合は英語で日本語を教える。これは僕にとっては無料オンライン英会話みたいなものだ。子供を育てることによって親もまた成長しているという事象とほとんど相違ない。
 しかし、もちろん前提として単純に興味・関心があるからやっている。僕は対人のコミュニケーションにおいて口調や声音をあまり変えない。そういう感情表現はどちらかというと「歌」に向いていると考えており、基本的に会話においては「言葉」そのものに置く表現の比重が大きい。語彙や文法は勿論のこと、カジュアルな口語表現やスラング的なものまで、日常生活における生きた言葉には人一倍敏感なほうである。習慣的に読書もすれば自分で物も書くので、言語学習に携わろうと考えるのはある意味自然なことだった。

 というわけで、最近は純粋な知的好奇心からTOEICでも受けてみようかと目論んでいる。日本以外ではあまり通用しない民間資格試験の解像度を上げたところでどうにもならないのだけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?