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自己肯定感やら、なんとやら

昔から何となく、自分を卑下して周りから褒めを待つ人が理解出来なかった。理解できない、は自分の考えのニュアンスとしては少し言い過ぎな感じもするのだが、とにかくよく分からなかった。

だって、家を出るときは、自分の合格点を超えてからじゃないとみんな家を出ないだろうし、目標とするところまで行く途中で、強風に吹かれたり、大雨に遭ったり、そういうことがない限りは合格点じゃない?だったら、わたしはかわいいでしょ?と思う。

加えてわたしは誰かに誘導されたり、誘導することがあまり好きではない。きっとこう言って欲しいんだろうな〜って感じると絶対に言いたくないし、自分も想像した通りの答えが返ってきそうな話題にはすぐ飽きてしまう。

だからこそ、学生時代にあった「わたしブスだし〜」「いやいや○○ちゃんかわいいよ」「そんなことないよ〜」「かわいいって〜」みたいなやり取りにはほんとうにウンザリしていたし、自分が言われるときは「まあね〜!」と言うくらいには興味がなかった。(だからと言って自分だけ言われないと寂しいのでたまには構って欲しい)

タイトルにある「自己肯定感」とどう繋がってくるのか。

わたしは自分に対する肯定感は高い。
わたしはわたしのことを理解しているから、今まで何をどれだけ頑張って、我慢して、挫折して、乗り越えて、今日まで生きてきたかを知っている。だから、わたしの良さはわたしが1番分かっている。

でも、これらのことはわたしの生き様や人生の話のことで、容姿はまた別のお話になってくる。

わたしはわたしの容姿が特別苦手なわけではないが、やはり人間なので、コンプレックスとまではいかなくとも、少し考えると落ち込みそうな部分はあるのが本音だ。

そんな部分も含めてわたしは私自身のことを認めてあげることが出来るのだが、自分の心の中で自分では無い第三者を作り上げた時に、改めて自分を見てみると、とてもみすぼらしく恥ずかしい存在に思えてしまう。

この癖はどうしても治らない。

中学のとき、これまでクラス替えのなかった小学校の規模感から、急に5クラスもある中学校に進学し、自分を取り巻く環境が一気に変わった。

それと同時に、みんなが自分を見定めているような圧迫感に襲われて、うまく息が出来なかったことが印象に残っている。前髪の分け目、ピンを止める位置、自分のくせ毛、触覚、マスク、すべてに点数がついている気がした。

上手く馴染みきれず、変な憧れに走りそうだった入学してまもない頃、当時の担任の先生に「そのままだとよくない方向にしかいかないよ」と個別に呼ばれて言われたことがある。

そのときわたしは、変な憧れを持ったことや、自分がなりたいと思っている像になれない絶望や、自分でも自分が分からなくなってることに気付いてくれた嬉しさや、とにかくいろんなものがぐしゃぐしゃで、ぽろぽろ泣いてしまったのを覚えている。

1〜3年生が共通で使っている1本の長い廊下を歩くことがいつも怖くて、トイレにひとりで行くことすら「あの子はひとりぼっちだ」って思われそうで行けなかった。

小学生の頃は、誰が一番かわいいとかあまり興味がなかったのに、中学校に入った途端、わたしは何番目にマシなのだろうか、下から数えた方が早かったらどうしよう、恥ずかしい人間になりたくない、とか根拠の無い謎ランキングに悩まされていた。

わたしの人格が形成されたのがその頃だったため、いまでこそ「わたしはわたし!ラブマイセルフしよ!」ってマインドで居ても、わたしは何にもなれないし恥ずかしい人間かもしれない…と急に落ち込んでしまう日も来てしまう。

自分自身のことは自分が1番理解していて、こういう人生を歩んできた自分をわたしは抱きしめてあげられるけれど、第三者はどうだろうか?

わたしじゃない誰かに、わたしのこれまでを否定されたら、わたしはこれから何になれるのだろうか?

そんな不安はいまでも時折訪れて、わたしのことを脅かしたりする。やっぱりわたしは大したこと無かったって悲しくなることもあれば、わたしのことを分かってくれないってめんどくさいムーブをひとりで起こしたりもする。

でも、きっとそのすべての考えは決して悪いものではなくて、わたしが私自身と向き合うために必要な時間なのかもしれない、と感じている。

いつか、そんな不安すら愛おしく思える日が来たらいいな〜って思いながら、ちょっぴり不安な夜を寝てやろうかなって、

そんな今日、だったりね。

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