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あげる・もらう

2020.01.27

「与えることだよ!ただ1つのホントの喜びは与えることだ」

これは、知る人ぞ知るチャーリーブラウンの名言なんだけど、昔、何かのタイミングでこの言葉に響いたらしき私は、これをメモしていた。

それから、そんなこともすっかり忘れて去年ぐらいからずっとこの「与える」の話を自分の身の回りで頻繁にするようになった。

それで、ふと身の回りの誰かとの関係性をすべて「あげる」「もらう」で整理しはじめていると、ほとほと私はなにも「あげる」ことができていないことに気付く。与えられていない、それはホントの喜びを知らないってこと。それは、人のせいにすると「もらう」ことができる人の方が偉くて価値があるという呪いにかけられてきたという部分も少しある。ちょっと前に「貢ぐ」という価値観が蔓延していたけど、あれなんかまさに「貢がれる」ことこそ最高峰みたいな感じでしたよねーと思い出しながら。まあでも貢がれる人は貢ぐ人に何かを与えているとも言える。

そう考えだすと、整理しているうちに「あげる」と「もらう」は表裏一体すぎて同じもののように思えてきたし、(同じもの?)考え方次第で、あげているつもりのものが全部もらっているように感じる。私がしているライティングなんかは良い例で、インタビューやレポートで取り上げて発信して「あげる」ことをしているつもりだったけど、それによって対象者のこともっと深く知って好きになったり、視野が広がったり、あるいはさらに副産物として「家ガールさんは音楽についての文章が書ける人」とみなされたことによって、次の依頼を「もらう」ことができていたり。ずーっと「あげる」の裏に「もらう」がついてきて、ああたくさんもらえているなぁ、って思うのも個人の心持ち次第ではあるのだけど、私は本当にずっとずっともらいっぱなしで、命のある間に「与える喜び」をちゃんと感じることができるのだろうか。

例えば「家ガールさんのあの文章とてもよかったです」と言っていただいて、その方に私は何かを与えられたのだろうけど、この言葉を貰った時点でもう「あげた」なにかが「もらう」ものに変換されている。とめどなく「あげる」の尻から「もらう」なにか。あぁ、またやっぱりもらっているじゃん、とか。

夜中の3時に思考することじゃなかった。

「あげる」人になりたい。これは「役に立ちたい」や「愛されたい」を超えていきたいという欲求であって、結局もらおうとしているのだな。あげる・もらう・あげる・もらう・ぐるぐる。