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統合失調感情障害なわたし


#創作大賞2024

統合失調感情障害をご存知ですか?!
統合失調症と双極性障害が合わさった病気です。
どっちもを患うってなかなかいないですよね笑笑笑

わたしは21歳の時に病気になりました。
入院歴はありませんが、転院した先では
よく入院しなかったねとも主治医がおっしゃってました。

通院先と日常生活状況が病院ごとに分けてありあます。

茨城県立中央病院

平成18年6月28日 ~
平成18年7月5日まで 大学在学中

日常生活状況
・入院歴なし。
・大学在学中、授業や実習、アルバイト(2つ掛け持ち=カインズホーム&ローソン)、大学でのイベントの役員、当時交際していた相手との関係など、
多くの悩みやストレスを抱えていた。
・アルバイトを2つ掛け持ちして経済的に慢心して脱毛エステにのめり込み、36回ローンを何個も組んで百万円を超す金額となったが、
体調不良になりアルバイトを継続できなくなり破産状態となった。そのことが両親に発覚し、代わりに返済してもらった。
・大学2年生までは成績が上位8位になるなど比較的優秀であったが、忙しく不眠に陥り、自分の時間がないことが影響して学業に身が入らず
集中できなくなって次第に成績が悪化した。試験でも思考が働かず、成績もA判定からC判定へ落ちることが多くなった。
・朝、起床できないことが多くなり、大学へ通学が困難となり授業を休みがちになった。
・平成18年6月27日夜、当時交際していた相手の自宅にてパニック症状が発出、
過呼吸となり茨城県立中央病院に救急搬送される。その後、点滴治療を受け帰宅した。
・平成18年6月28日 「なんとかしないといけない」という家族の意向により、茨城県立中央病院内科から精神科受診。
(このとき、不眠・動悸・頭痛・ふわふわしためまい・泣き出すなどの症状が出ていた)
受診には家族が付き添った。診断名は「パニック症」。処方薬は「ドグマチール」を処方された。
・平成18年7月5日の診察時、担当医師と相性が合わないと感じ、症状は続いていたが少しは落ち着いたため、
その後、茨城県立中央病院へは受診していない。
・大学の先生のアドバイスがあり、大学近くの「大原神経科病院」を紹介してもらい、転院した。
・通学はなかなかまだ難しかった。

・薬物療法(ドグチマール)
・担当医師との相性が合わないと感じた
・大学の先生のアドバイスにより転院
病名はパニック症。

大原神経科病院
平成18年7月13日 ~ 平成22年2月頃まで
週1回~
月1回程度 適応障害
・薬物療法 ・精神療法 ・カウンセリング
・平成18年7月13日~平成20年4月23日まで…松崎医師
・平成20年4月24日~平成22年2月頃まで…大原院長(転勤による)

日常生活状況
・入院歴なし。
・大学3年次後期から休学となる。
・実母が通院付き添い。高速道路を使用して通院。多い時は週1回の頻度。薬の調節に多くの時間を費やす。この時の診断名は「適応障害」。
・休学中は自宅療養。療養中は突然泣き出すことが多く、食欲もないときが多かったが、副作用で過食となり体重が20kgほど増加した(80kg)。
・意欲低下のため、入浴も洗面も出来ず、排泄するためにトイレに起きるだけで一日中寝て過ごすことが多かった。
・服薬治療を継続し、症状が少しずつ改善されたことから大学4年生前期で復学したが、抑うつ状態は常にあった。
・朝起床できないことが多く、講義は休みがちとなり、人間関係のストレスもあり、友人関係も変わってしまい、不安な思いを抱えて食事を一人で摂ることが多くなった。
・薬の副作用による眠気が強く、病院実習では看護師による講義中に椅子に座っていても体が傾くほど寝てしまうことがあった。
・成績は依然として悪い状態が継続したが、なんとか大学を卒業することができた。
・休学により教育実習が申し込めず在学中に教育実習を行うことができなかったが、翌年に科目等履修生として教育実習の単位を取得し、教員免許を取得した。
・科目等履修生時にアルバイトをしていたが、インカムを使用中に突然耳が聞こえなくなる・説明がうまく出来ない・いつもパニック気味・抑うつ継続。
・アルバイトの出勤時は、いつも慌てていて、食欲もない状態であった。コンビニのおにぎりを「働くために必要だから」と自分を納得させて無理矢理食べていた。
・アルバイトは辞めて良いと上司の判断で辞めることになったが「何をやってもダメだ」と自暴自棄にになり自殺願望が出現、入水自殺を計画し、
海まで行こうとするも友人に助けられたことがあった。
・平成21年2月21日 自宅で神事があり「いいことが導かれる」と妄想的に考える。
・平成21年2月22日 大学から「高校講師募集」の電話があり、いきなり躁転し誰にも相談することなく一人で講師募集に応募した。
このことは、前日の神事により「いいことが導かれる」ということと関連づけて妄想的に考えていた。
・高校講師に内定し、一人暮らしのために教職員住宅を案内されたが、準備することばかりに気を取られ採用校でない管轄の学校へ先に挨拶に行ってしまった。
(行動の順序を整理できなくなっていた)
・平成22年4月~ 茨城県立鉾田第二高等学校常勤家庭科講師となる。部活を2つ掛け持ちすることとなった(調理部・バレー部副顧問)。土日も休みなしだった。
・躁状態でどうにか教壇に立つも、自分の時間が取れなくれて平成21年5月頃から不眠状態となり、先生に電話やメールで起こしてもらうことが多くなった。
・食事を作ったり食べたりする時間がなく、午前中はあめ玉一個、脳にはブドウ糖タブレットがいいと思い込み、そればかりを食べるようになった。
・仕事量が多く順序よくこなせないことが多くなり、長期的プランで授業を準備できず、目先のことしかできなくなった。
・休日は寝てばかり、食事の片付けが出来ず食べっぱなし、食器はシンクに置きっぱなしのため、ゴキブリが発生した。
しかし、自分は横たわり起き上がることもできないためゴキブリ退治もせず放置していた。
・テスト関係では残業で深夜0時を回ることもあった。職場に適応できずどんどん体調が悪化、意欲が改善しない、不眠、泣き出したり、
ふわふわめまいがするなどの症状が出ていた。このままでは過労死すると思う程に痩せていき「なんとかしないと」と近所の内科に受診するも
大原精神科病院に通院するように言われ、休職の診断書を書いてもらうこととなった。
・平成22年10月初旬、休職。その後、一身上都合で平成23年1月31日付で退職。実家にて療養。食事を摂らずベッドで寝たきり状態のため体重が減少。
約55kgから一時39kgまで減少した。
・過去に処方された薬が「ジプレキサ」ということを、薬の事典で調べたところ強力な精神薬であり「自分はどうやら統合失調症かもしれない」と衝撃を受け、
本屋で過呼吸パニックになった。
・主治医が信じられなくなり、自己判断で服薬中断。睡眠を取らない、食事をしない、入浴しない、歯磨きしないといった乱れが継続、鬱状態となった。
両親が見守って3人で就寝するようになった。
・東日本大震災によって大原神経科病院の外来受診がストップしたため、平成23年3月25日に自宅近くの小松崎病院に転院した。
【処方薬は以下の通り】
ソラナックス、パキシル、ジプレキサ、ルーラン、リスミー、リスパダール、ガスポート、エビリファイ、メイラックス、トレドミン、グットミン、セロクエル
【就労状況等は以下の通り】
①大学3年生後期(平成19年9月~)から休学 ②大学4年生前期(平成20年4月)から復学 ③大学卒業(平成21年3月) ④科目等履修生(平成21年4月~1年間)
⑤アルバイト勤務(映画館スタッフ 平成21年7月頃 ~ 平成22年2月頃まで) ⑥茨城県立鉾田第二高校 家庭科常勤講師 勤務(平成22年4月 ~ 平成23年1月31日)
⑦退職後、実家にて療養

小松崎病院 その1
平成23年3月25日 ~ 平成28年3月頃まで
通院回数:週1回~月1回程度
診断名:統合失調症
のち
統合失調感情障害

・自宅水田近くの神社に藁人形があるという情報を得て、家族と見に行き、実際にそれを見つけ「自分や家族に対するものだ」と妄想にとらわれ、日々恐れるようになった。
・自宅近くに陶芸家がいて、勧められたことにより「自分は将来陶芸家になる」と思い込み、過ごすようになった。
・アニマルセラピーを家族から勧められ犬を飼ったが、抑うつ状態で自分のことに精一杯で世話ができなかった。
・「震災で死ぬなら愛犬との約束を果たそう」と思い、躁転してハイテンションになり、衝動的においしい水を飲みに行こうとして
自宅近くの高峯山(標高約520m)に愛犬と登った(震災直後)。その後、家族から携帯電話に連絡があり下山しようとしたところ、捜索していた家族に保護された。
・言葉がうまくつながらなく、イライラして、うまく説明ができず、自分の感情が爆発してしまうことがあった。
そのときは包丁を持ち出して机の上でバンバンと叩いたり、物を破壊したり、投げたりした。
・①頭の中で男の人の声が聞こえてきたり、頭がチリチリする感覚、鼻血が出そうな感覚に襲われることがある。
・白いジャージを着て自宅の庭で愛犬と寝ていた。そのさまを、原発事故で作業員が着用していた防護服の様子と関連づけて「自分は原発事故を予言した」と吹聴していた。
・自分をコントロールすることができず、衝動的に裸足で畑や丸太の上を歩いたり、畑にあった「ほうれん草」をその場でそのまま生で食べていた。
・自宅の部屋の天井のシミが気になっただけで天井裏に登り込み、家族に見つかり騒ぎとなった。
・大学センター試験の不正のニュースが報道されているのを見て、以前の自分の体験(教員をしていたときに生徒のカンニングを目撃したことがあった)が予言したのだと
思いこんだ。
・②家屋のきしみ音(パチッという音)がするとご先祖様が合図しているのだと妄想するようになる。
・③光や音に敏感になるようになった。耳が敏感なときはちょっとした音でもうるさく感じる。
・④「子供返り」をしたような話し方になったり、愉快で踊ったりするときがある。
※上記①②③④は今でも症状があり、自分ではコントロールが難しくなり、時間を取られて日常生活に影響が出る。
・頭のチリチリ感があるという説明がうまくできずに「ぎゃーっ」と騒ぎ出すことがしばしばあった。
・平成23年3月25日小松崎病院転院、家族が付き添い、主治医の診察で「よく入院しなかったね」といわれるほど状態は悪かった。
診断名は「統合失調症」。処方薬は「ジプレキサ」「レンドルミン」「レボトミン」。
・平成23年4月 小松崎病院の診察で、気分が高まって衝動的になったり薬の副作用で眠気が発生することを理由に自動車の運転が禁止され、
家族の送迎により通院することとなった。
・家では暴れることが多くなり、家族が疲弊し看病が限界となり、主治医から小松崎病院のデイケアを勧められ、平成23年6月頃から週一程度で参加するようになった。
しかし、秋頃に気分が落ちて参加意欲がなくなりデイケアに行けなくなった。12月頃から主治医の勧めで再度参加するようになった。
・服薬治療とデイケアに通所して、社会復帰するための治療を続けていた。精神保健福祉士との面談で、デイケアを週1日から週5日へと参加日数を年単位で徐々に増やした。
症状が安定してきて、長期目標を考えながら日常生活を整えていった。
・デイケアに参加しつつも働きたい意欲が強まり、突発的に一人で勝手にハローワークにいき求職登録を行うも、意欲が継続できずにその一回で終わった。
診察でそのこと報告すると、「まだダメ、早い。許可が下りず治療に専念しなさい」と指示された。納得してデイケアに専念して体調を整えることを優先した。
・体調が悪いときは、意欲が湧かずデイケアを休むことがあった。
・意欲に波があり、眠気があって行けないと考えても、その直後に出発10分前になっていきなり準備して慌てて行くなど、行動が瞬間的に変わることがあった。
・季節の変わり目は体調の悪いときが多かった。
【処方薬は以下の通り】
ジプレキサ、レンドルミン、レボトミン、ソラナックス、ワイパックス、ラックビー、ブスコパン、リフレックス、ルボックス
エビリファイ、ガスター、ラミクタール、ロキソニン
・薬物療法 ・精神療法
・大原神経科病院から小松崎病院へ転院
(東日本大震災により外来受診停止となったため)
無職


小松崎病院 その2
平成28年4月頃 ~ 令和3年11月頃まで 月1~2回程度 統合失調感情障害
・薬物療法
・精神療法
・転居に伴い栗田病院に転院(令和3年12月7日)
専業主婦
書道稽古手伝い

日常生活状況
・入院歴なし
・デイケアに週5日で通う。
・精神保健福祉士との面談を続け、症状の付き合い方を学んだ。主治医との診察でデイケアを利用し、自分の症状が酷く、重度の状態であったと確認・振り返ることができた。
・長期目標は、週5日・3ヶ月デイケア通所が就労の基準だったが、平成28年3月時点では就労基準に達することができなかった。
・躁状態の時は、お金の使い方が荒く、ゲームセンターのUFOキャッチャーに予算以上のお金を使うほどのめり込むことがあった。
そのため、主治医から遊ぶのを月1回に制限するように指示を受けた。デイケアよりも遊びを優先してしまい、治療が進まなかった。
・鬱状態の時は、寝たきりで食欲もなく、トイレに行くだけの生活となった。ただし、夕方から起き出して行動することはできた。
・平成28年11月頃 就労の話を主治医にしたところ、障害福祉サービスの就労支援の許可を得て、小松崎病院と提携している筑西市の就労継続支援B型「イマココ」を見学した。
平成29年2月7日契約し通所を開始。週1日から2日参加して、ビーズのアクセサリー制作や軽作業を行った。その間もデイケアには週3日程度通い、治療を継続した。
・幻覚、妄想、躁とうつの波があり、平成31年3月26日の診断で「統合失調感情障害」となった。
・平成31年9月13日入籍。笠間市へ転居、居住開始。結婚により夫の支えがあって精神的に安定する。
・実家の桜川市から「イマココ」への通所時間は約35分だったが、結婚後笠間市に転居したことにより距離が遠くなって、通所時間が約1時間に増えた。
1年間は通所するも、新しい生活環境に順応できずイマココへ通所するモチベーションが維持できず低下し、退所した。
・イマココ退所後は専業主婦で家事を行う。日中の過ごし方がもったいないと感じ、夫の許可を得て令和2年7月から水戸市で書道の習い事を始めた。
・書道の先生に勧められ書道教室の事務や先生の補助の手伝いを主治医の許可を得て、令和2年9月から始めた。
報酬は1日¥2,000、週2回のペースだった。13時30分頃から20時くらいまで書道教室にいて、帰宅は21時をすぎることもあった。
・疲れたときは入浴できずリビングで寝て、そのまま朝になることも多かった。
・夕食後の食器の片付けもせず、朝シンクの中の食器を洗ったりすることもあった。令和3年までは続けたが、低報酬による苦痛や書道の先生とのトラブルもあり、
精神的負担となって胃痛が発生、小松崎病院内科で胃カメラ検査を実施したが異常はなかった。胃痛改善のためにファモチジン、ネキシウムカプセルを処方された。
・書道の先生に教室を辞めさせてもらえないことにより、主治医に診断書「抑うつ状態」と書いてもらい辞めた。
・歯磨き中や入浴時に書道教室での先生によるストレスを思い出しては、なにかきしむ音に見張られている、何かご先祖様から合図があるという関連妄想が起こるようになり、
現在も継続している。
・脈絡のない話を突然することがあり、自分の頭で思ったことが整理せずに発言することがあった。その際は多弁だったり、声のトーンが強かったりボリュームが大きい。
夫に強く当たることもあった。
・「人にどう思われているか」を気にして、一人で心配して落ち込むときがあり、現在も継続している。
【処方薬は以下の通り】
エビリファイ、ワイパックス、ソラナックス、ガスター、ラミクタール、レボトミン
バルプロ酸ナトリウムシロップ、ロキソニン、ムコスタ、ラックビー、ビオスリー

栗田病院
令和3年12月7日 ~ 現在まで 月1~2回程度 統合失調感情障害 ・薬物療法
・精神療法
専業主婦
就労移行支援
日常生活状況
・入院歴なし
・令和3年11月 夫の転勤に伴い、笠間市から夫の実家がある那珂市へ転入、夫の義両親と同居が始まった。
・小松崎病院の紹介状により令和3年12月7日栗田病院に転院、引き続き「統合失調感情障害」の診断を受けた。
・朝ご飯は義母が準備、用意。食器の片付けもしてもらう。洗濯干し込みたたみ、風呂洗い、二階の部屋掃除は自分の担当に分担した。
夫が休みの日は代わりにやってくれている。夕食は作ることもあるが、食器片付けは義父・義母が担当している。
・朝、決まった時間に起床できず、義母が起こしにくる。
・体調が悪いときは、意欲が湧かずに夕方まで寝たきりとなることが多い。脳内で爆発音がしたり、頭がチリチリしたり頭に何かしらの不調があることが多い。
・午後は眠気が強く出て昼寝をすることが多くなり「生活の質が悪い」「何か出来ることはないか」と考え、最寄りの那珂市のジムに登録したが
モチベーションが維持できずに行かなくなった。
・令和4年初頭、主治医に「就労支援を受けても良い」との判断をしてもらい、ひたちなか市の就労移行施設「COLORS」を見学した。
・令和4年4月4日 ひたちなか市の就労移行施設「COLORS」と契約、通所を開始した。
アート部門で、デザイン画・プラ板(お弁当の蓋)を用いたキーホルダー・アクセサリー作りを担当している。自家用車で通所し、約30分かかる。
眠気が強かったり、運転に自信がないときは送迎を利用している。
・最初は週2日から通所を開始し、徐々に週5日に増やしている。半日通所が多いが、体調がいいときは1日利用することもある。
・障害福祉サービスの利用に関して、那珂市役所による所得の判定に誤りがあり、過年度に遡って利用料の負担が発生した。
前年度の利用料(上限\9,300のところ\5,500前後)の支払いと、今年度の利用料(上限\9,300のところ\9,300)の天引きが発生し、経済的な負担が大きくなった。
これらに伴い、毎月の工賃が¥500前後となった。せっかく社会的にも自立したかったのに、生活費にもならず、夫に金銭面で負担がかかっている。
・感情が爆発し、お金がないことに意識が集中してしまい、他の日常生活が滞ることがストレスとなっている。
・主治医は「障害者手帳や障害年金を申請したほうがいい」と初めのころから勧めてくれていたが、実母が拒否していたので今まで申請してこなかった。
家族の意見も聞きながら、今回のタイミングで申請した。
【処方薬は以下の通り】
ラミクタール、エビリファイ、デパケンシロップ5%、ワイパックス、デエビゴ、ベルソムラ、ラメルテオン

これらは
障害年金を申請した時に作った
病歴・就労状況等申立書の中身です。
これを作っている時に
帯状疱疹、口唇ヘルペスになって
ドクターショッピングもしました。

わたしのありのままです。
ドラマみたいだねと言われたこともあります。

ドラマだよねもう
笑笑笑
ドラマになるかな?!笑笑笑笑笑笑
でも
本にはなりたいなぁー!!!

わたしは病気になっても
支えてくれる主人、家族、友人の力が大きいです。
1人でいたらもう
死んじゃうでした。

自殺願望より生命の危機でした。

今からこうしてドラマのようなほんとの出来事が
誰かの心にそっと
こころを摩ってあげられるような
何かパワーにつながればいいなと
思って公開します。

何かのお役に立てますように

8108文字
よく最後まで読んでくださいましたー🫰
わたしの理解をありがとうございます😭

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