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我慢と人

我慢するというのはどういうことだろう。頭を空にして書き始めようと思ったら、そんなことを考えていたようだ。

「我慢 語源」と調べてみる。

我慢の語源・由来 我慢は、仏教語で七慢のひとつで、サンスクリット語「mana(マーナ)」の漢訳。 仏教で「慢」は、思い上がりの心をいい、その心理状態を七つに分けたものが「七慢」である。 その中の「我慢」は、自分に執着することから起こる慢心を意味し、「高慢」「驕り」「自惚れ」などと同義語であった。

https://gogen-yurai.jp/gaman/
 

我慢とは、堪え忍ぶこと。辛抱すること。俗に、入れ墨のこと。

https://gogen-yurai.jp/gaman/
 

さっと記事を読んでみる。
七慢とは


過慢
慢過満
増上慢
我慢
卑慢
邪慢

からなる。

なんだこれ。めちゃくちゃ面白い・・。

私が、なぜ、「我慢」という言葉を選んだかというと、最近少し頭を離れない思考の雲があったからだ。
それは、「自分を殺す」と「思いやり」の狭間に「我慢」があり、俗に言う人間関係の中では、そのスペクトルを振り子のように行ったり来たりしているのではないか、ということだ。
優しさと思いやりが度を超え、忍従となった時、それは自制の域を超え、言葉通り、「自分を殺す」ことになるのではないか。

人間関係を円満に過ごす為に、相手の立場になり、考える。一つや二つの過ちは誰にでもあることだ。堪忍し、次にはそのようなことが無いことを願う。

だが、「仏の顔も三度まで」だ。

仏以上の忍耐力を養う必要は、ない。そんな我慢の堪忍袋の尾だって、いつかは切れる。

これは自分に向けた言葉でもある。

私が吐瀉物や排泄物のように時に音楽を作成するのは他でもなく、その我慢がリミットに達した時のように感じる。
人に聴かせることを第一目的としない、日記のような制作物。芸術は、特に若者の芸術はそんなもので溢れている気がする。
それを見てくれ聞いてくれわかってくれと押し付けるのだから、届く受け手が少ないのも訳ない。


あなたは誰を思いやり、何を我慢していますか。そして、我慢の限界はどういう形をしていますか。

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