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nameless bassist

観客のざわめきが、聞こえる。抑えきれない期待と興奮を感じる。すさまじいプレッシャーを感じる瞬間だ。

「彼」は、殻の中に閉じこもっているように見える。心を閉ざして、誰をも寄せ付けない。「彼」の強さと繊細さは、こんな時に、表れる。ステージ上の圧巻のパフォーマンスよりも、このステージ前の、「彼」の佇まいに俺は、アーティストとしてのすごみを感じる。

ギタリストは、ギターを抱え、淡々と、出番を待っている。彼は、静謐な頑固者だ。意見を曲げることはないが、ヒートアップすることも、あまりない。圧倒的な、存在感のあるギタリストではあるのだが、それを超越する冷静さを持っている。

ドラマーは、スタッフとまだ、談笑している。全く、緊張しているようには見えない。バンドの中で、1番怒りっぽく、1番人懐っこく、1番女性好きだ。ある意味、バンドの人間臭さを、担っているかもしれない。

俺は、隅で静かにそんな彼らを見ている。一応、バンドメンバーの一員であるはずなのだが、それにそぐわないような気がしてならない。10年以上一緒にやっているのだが、その違和感は、なくならない。多分、俺には、合っていない職業なのだろう。

ステージに上がる。観客のボルテージが上がる。最初の一音。俺たちと、観客が繋がる瞬間。

「彼」は、ステージに上がってはじめて、本来の自分に戻るのではないだろうか?観客にだけ、自分の魂を解き放つことができるのではないだろうか?

「彼」の伸びやかで、パワフルな声を聞くたびに、俺はそう思うのだ。

歌うドラム、オーケストラ的なギター、そして、観客にダイレクトに感情が伝わる声。

俺のベースが、俺のグルーヴが、その助けになればいい。

俺という個人の肉体を離れて、バンドという別の生き物になる。

俺には、それが恐ろしくもあり、誇りでもあるのだ。

俺は、ミュージシャンでありながら、自分で言うのもなんだが、エゴがあまりない。自分のプレイを前面に押し出したいとも思わない。バンドとして、ベストなプレイが出来たらいい。

自分が作った曲にしても、バンドとして、いい曲になればいい。

何というか、執着心がない。有名になりたいとも思ってない。バンドがすごすぎて、結果、有名になってしまったが。それは、自分にとっては、どっちでもいいことだった。

ステージという特等席で、素晴らしいバンドを体現している。そんな感覚が強い。俺は、このバンドの熱烈なファンであるだけなのではないだろうか。

時々、そんなことを思ってしまう。

音が弾ける。観客のパワーとバンドのパワーが拮抗する。

痺れるような、感覚に満ちてくる。

そして、ふと思った。

俺は、このバンドの一部である。

だからこそ、

名もなきベーシストと言えるのだと。

俺は、ステージをすぐに終わらせたいような、永遠に続けたいような、奇妙な感覚にとらわれた。

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