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反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #6


07.中川清兵衛の新たなる挑戦

1891年(明治24)ビール醸造業から去った中川清兵衛は、妻子とともに札幌から小樽に移り住みます。

小樽での旅館経営

小樽運河沿いに船宿「中川旅館」を開業。場所は、現在の小樽市色内1丁目付近です。旅館は、立地も良く、技術者一筋の中川でしたが、「誠実・勉強」をモットーに大いに繁盛したといいます。「日本郵船旅客取扱所」の肩書までもらい、小樽屈指の旅館となります。

中川旅館 現在の小樽市色内1丁目と推定される。ホテルノルド小樽の裏手、出抜小路に面していたと思われる。小樽運河にも近くて利便性がある旅館だったようだ。  出典 中川清兵衛伝
現在の小樽市色内1丁目付近   写真右手のホテルノルド小樽の裏手に中川清兵衛が経営する船宿「中川旅館」があったと思われる。写真上部方向がJR小樽駅方向。

利尻島の港湾整備事業に乗り出す

中川は、海運関係者と親交を深めるうちに、日本最北の離島である利尻島の人々が港がなくて苦労している話を聞き、彼の義侠心に火が点ります。
とにかく目の前に困っている人がいれば、動かずにはいられないような正義感が強い人物だったと言われています。

1895年(明治28)、47歳の中川は、利尻島に渡り、私財を投じて鴛泊港の整備事業(防波堤や船着き場)に乗り出します。費用の総額は20万円で、現在なら10億円に相当します。
工事資金を低金利で支援して一定の成果は上げましたが、北の海は、手ごわく、防波堤は、嵐のたびに壊れてしまい、2年経っても完了せず、工事費の大幅な膨張で提供した資金の配当分は、元より、元金の返済も絶望的になってしまい支出は、個人の限度を越え資産が尽きてしまいます。
中川は、51歳にして全てを失ってしまうのです。

1898年(明治31)中川は、繁盛していた旅館を手放し妻と末娘を連れ3人で横浜に移ります。

書籍「中川清兵衛伝~ビールづくりの先人」

1982年(昭和57)中川清兵衛の孫にあたる菊池武男、柳井佐喜の両氏が「中川清兵衛伝~ビールづくりの先人」を出版しました。
この中で失敗したと思われていた利尻島の築港事業について中川が建設した防波堤が現在でも残っていて島民の役に立っていることが記載されています。

現在の利尻島鴛泊港
私は、20年間、日本最北端の地、稚内から利尻島、礼文島を結ぶフェリー会社に勤めていました。当然、何度も利尻島の鴛泊港を訪れました。確かに書籍「中川清兵衛伝~ビールつくりの先人」で記載されているように中川が携わった防波堤や船着き場(昭和40年代頃まで稚内や小樽などからの連絡船が発着)が残っていると思います。しかし、残念ながら島で中川清兵衛の名前を聞いた記憶はありません。島の恩人とも言うべき中川清兵衛のことを今後も調べ、島民は元より、鴛泊港をフェリーで訪れる観光客にも知ってほしいと思います。

利尻島鴛泊港   出典 中川清兵衛伝

   

大正末期から昭和初期の利尻島鴛泊港   写真の港部分が中川清兵衛が築港に携わった場所と思われる。現在でも一部、埋め立てられてはいるが漁港として使用されている。写真下部の坂は鴛泊港のランドマークである「ぺシ岬」の頂上へ続く坂道。写真は、中川清兵衛が築港に携わってから約20数年後のものです。

晩年の中川清兵衛

横浜では、保土ヶ谷の久保田塩田(現 横浜市西区浜松町)あたりで、倉庫番のような仕事をしていたようです。

その後、末娘が嫁いだので、隠居暮らしを始めるべく夫婦で名古屋電気鉄道技師の長男が住む名古屋に移りました。

50代となっていた中川は、病で床に臥す日が多くなりますが、それでも自分が作り上げたビールに対する思いは変わらなかったといいます。
体調が良くなるとビールを飲んで往時を偲んでいました。

マイスター中川清兵衛の死

1916年(大正5)のはじめ、中川は、食道ガンに冒されます。
ゴム管を通して流動食が流し込まれる状態で、「ビールでも入れてくれたら、小唄の一つでも出るんだがなあ」と冗談を言って、心配する家族を気遣ったといいます。

4月2日、日本人最初の醸造マイスター中川清兵衛が亡くなります。
享年69。

中川清兵衛の晩年は、とても寂しいものでしたが、ビール醸造の先駆者としての彼の功績は、決して消えることはありません。

エピローグ

明治の初め、札幌の大地には、近代国家建設とビール産業の設立にかける男たちの熱いドラマがありました。
そのビール造りに掛けた男たちの姿勢は、現代の私たちが忘れている困難を打ち破る信念と世の中の不正には正面から立ち向かう反骨の精神が必要なことを教えてくれている気がします。

きょうの晩酌は、村橋久成と中川清兵衛の功績と生きざま、そして北海道の大地に敬意を込めて。ビールで。。。プロ―スト!乾杯!


Information

村橋久成

北海道知事公館の前庭に2005年(平成17)9月23日(サッポロビールの開業記念日)に「村橋久成像 残響」の胸像が建立されました。
製作は、彫刻家 中村晋也です。また、同じく鹿児島県中央駅東口広場にある「若き薩摩の群像」の中に英国に留学した15人の1人として村橋久成の像が確認できます。こちらも中村晋也の作です。

村橋久成の墓所:東京都港区南青山2-32-2 青山霊園内

北海道知事公館前庭の「村橋久成胸像 残響」(中村晋也 作)

中川清兵衛

故郷の新潟県与板に2000年(平成12)6月、生家である中川家跡地に彼の偉業を称えて「中川清兵衛生誕碑」が建立されました。
また、彼にちなんだイベントとして毎年7月下旬に長岡市役所与板支所前の駐車場で「中川清兵衛ビールフェスタ」が開催されています。



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