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サムライの珈琲とストーブ~#1 ロシアの南下政策

プロローグ

江戸時代後期以来、18世紀~19世紀頃のロシアの領土的拡張は、日本の脅威となっていました。ロシアは、シベリアを領有し千島列島(クリール諸島)、カムチャッカへ進出していきます。

その進出理由は、当時、最高級品として特にヨーロッパや中国(清)で需要が高かった「ラッコや黒テンの毛皮」です。特に、ラッコ猟に関わる船の食糧や燃料を確保するために、日本と通商条約を結ぶ必要があるとロシアは考えていました。

『北海道・霧多布岬のラッコ』        

当然、食糧や燃料を遠く首都のペテルブルクから送ることは、ほぼ不可能です。シベリヤや千島列島に近い日本から供給を受けるのが利便性が良いのは明らかでした。

そのためにロシアは、まず、ロシア人商人を利用して日本の対応を探らせます。その後、1792年(寛政4)ラクスマンや1804年(文化元)レザノフをロシアの正式な使節として鎖国中の日本へ送り、門戸を開かせようと試みます。

しかしながら、日本(幕府)は、鎖国を理由に彼らを冷遇(いわゆる”塩対応”)します。特に、レザノフは、長崎で半年あまりも待たされたあげく(ラクスマンは約8ヵ月間でしたが。。。)、ロシア皇帝の親書を突き返され、交易の申し入れも拒絶され大激怒します。

彼は、現代で言えば、反社会的勢力が行うような指示を部下二人に命じます。”日本の北辺”を襲撃せよ”と。目的は、ロシア帝国の力を日本へ見せ付けることと長崎での屈辱を晴らすためだったと思います。のちに、この事件は、発生した時期から「文化の露寇」とよばれることになるのです。

二人の部下たちは、樺太(サハリン)や択捉島で日本人を襲い、さらに利尻島や礼文島では、日本の舟を襲撃して物資を掠奪して船を焼き払ってしまいます。

驚いた幕府は、これ以降、北辺警備ため、寒さに強いだろうという単純な理由などから東北諸藩に蝦夷地の宗谷や北蝦夷地(樺太)などへの出兵を命じます。

『1856~1858年(安政3~5)当時の宗谷』  幕府の命令により目賀田(幕府役人)が宗谷の海岸を描いた鳥瞰図

日本人のロシアへのある種の不信感や「恐(オソ)ロシヤ」などという言葉は、この頃から始まったのでしょうか。

特に1807年蝦夷地の宗谷(現 稚内市)の警備を命じられた津軽藩(弘前藩)は、厳冬という環境や野菜不足などによるビタミン不足が要因とされる「水腫病」で藩兵のほとんどが亡くなってしまいます。

このあと、1810年以降、宗谷での越冬は避けられ、若干、南に位置する増毛で冬を越すことになり、1821年に悲惨な宗谷派兵は、一旦、中止となりますが、1855年から、再び、東北諸藩からの派兵が行われます。
この時に水腫病対策として藩士に珈琲が薬として配布され、暖房器具としてストーブが設置されます。また、同時に毛布が使用されるなど越冬対策がと整えられるようになります。

このことから、日本で珈琲が一般人(武士も一般人という扱い)に初めて飲まれ、ストーブが国内で初めて製作され設置された場所が宗谷であると歴史に記されることになります。

今回、日本における『珈琲初めて物語』『ストーブ初めて物語』を当時の日本とロシアの関係も含めて、ご紹介します。

1.ロシア人の南下政策

1)ロシア人と日本人の初めての接触

ロシア政府は、日本を開国させるにあたり、まず、正式な使節や軍隊を送るよりも費用的に安くつくという点で商人による個人的な活動に期待をします。

そんな状況下でシベリア・ヤクーツクの商人・パーベル・セルゲイビッチ・レべデフ=ラストチキン(生年月日不明:18世紀生、19世紀死亡)が日本に商品や蝦夷地の毛皮の交易によって利益を得ようと動き出します。

彼は、3度、日本との接触を試みますが、第1回、第2回とも台風などの悪天候により船が転覆したり沈没して失敗に終わります。

3度目となる1778年(安永7)彼の部下であるドミトリー・シャパリンとシベリア貴族のイワン・アンチ―ピンが霧多布場所/ノッカマップ(現 浜中町)に上陸します。アンチ―ピンは、シベリア・イルクーツクの日本語学校多賀丸の漂流民から日本語を習っており、通訳として同行していました。また、案内人として クナシリアイヌの首長ツキノエを伴っていました。

クナシリアイヌ首長『ツキノエ』

二人は、松前藩士に交易を求めますが、判断ができないので来年、再度、来るようにと通告され帰されます。

翌1779年(安永8)ロシア側は、再訪しますが厚岸で対応した松前藩・松井茂兵衛らは、外国貿易は、長崎以外では受け付かないとして交易を拒否しました。

当時の松前藩は、幕府にこの事実を報告せず、独断で蝦夷地での交易を拒否したのです。当時、ロシア人の南下(来訪)について松前藩は、何の考えも方策も持たずに、極力、幕府に隠し続けます。
藩の財政事情が大変悪かったこともさることながら、幕府にロシア人来訪を知らせたら、必ず幕府に介入され、幕府の役人たちの往来のために余計な出費を強いられるという恐れがあったと推察されます。

アイヌ人たちに「フーレ・シャム」、すなわち「赤い隣国人」と呼ばれ、松前藩では、「赤蝦夷」と恐れられたロシア人が現実に蝦夷地に接岸・上陸するまで松前藩は、事の重大さに目をつぶっていたのです。

ラストチキンらは、善後策を考えるため、一旦、千島のウルップ島へ戻りますが、1781年(安永10)の地震による津波でしウルップ島にあった船は、陸地に打ち上げられてしまいます。
この被害を受けてラストチキンは、日本との交易を諦めてしまいます。

彼の日本との交易交渉は、結果的には、失敗でしたが、ラストチキンは、日本と最初に接触したロシア人の一人として知られることになります。

■ロシアの日本語学校

1774年(延享元)11月、下北半島佐井村を「多賀丸」(1200石積)が船主・竹内徳兵衛と乗組員(水主)17名を乗せて江戸に向かいます。途中、強風により遭難、半年も洋上をさまよい、翌1745年(延享保2)千島列島のオンネコタン島に漂着します。
この時、すでに7名が死亡(凍死)していました。この島で徳兵衛も死亡します。その後、10名はカムチャッカに連行され、全員がロシア正教の洗礼を受け、ロシア人名を付けられています。
記録に残るのは、船員・三之助がタターリノフ、久助(チュスキ)イワン・アファナシエフ・セミョーノフ、長助(チョスケ)フィリップ・ニキフォロフ・トラペズ二コフと呼ばれました。

1745年に5名が選抜され首都サンクトペテルブルクに送られ、日本語学校の教師となります。日本語学校は5名が到着する以前、薩摩の漁師ゴンザとソウザが教えていましたが、彼らが到着する十数年前に二人とも亡くなっていました。ちなみに最初の日本語教師は、1696年(元禄9)大阪から江戸に向かっていて暴風で遭難した淡路屋の番頭伝兵衛でした。

1754年サンクトペテルブルクの日本語学校がイルクーツクへの移転が決まります。ペテルブルクからは、3名(2名は死亡)が送られます。そして1761年、シベリアに残っていた4名の乗組員(1名死亡)が合流して多賀丸船員7名で日本語学校の教師として学生15名に日本語を教えています。
乗組員は、ロシア人女性と結婚して子供をもうけます。
長助の子供イワン・フィリポヴィッチ・トラぺズ二コフは、1792年ラックスマン使節に日本語通訳として同行しています。また、三之助の息子アンドレイ・タターリノフは、露日辞典(会話辞典)を編集してロシア科学アカデミーに納本しています。

2)工藤平助の指摘と蝦夷地調査隊の悲劇

ロシア人の接近(南下)を松前藩がいくら幕府に隠しても有識者の関心は、”北辺”へ向けられるようになります。
仙台藩の医師・工藤平助(1734~1801)の『赤蝦夷風雪考』(上下巻)は、先駆をなすものでした。
平助は、北方問題に関心を寄せ赤蝦夷(ロシア)が蝦夷地の豊かな産物を求めて進出してくる可能性があり、蝦夷地開拓に着手しないとアイヌ人もロシア側につくかもしれないと指摘します。

赤蝦夷風雪考  上下巻2冊。上巻でロシアとの通商、蝦夷地開拓を説いている。下巻は、ロシア地誌。日本初と言われる。

平助は、1784年(天明4)5月、勘定奉行・松本秀持を通じて、時の老中・田沼意次(1719~1788)に「赤蝦夷風雪考」を提出。これを受けて幕府は、1785年(天明5)春、幕府主導の下に全蝦夷地沿海へ「蝦夷地調査隊」を派遣します。

調査隊は、西蝦夷(宗谷を拠点として樺太など)、他の一隊は東蝦夷(国後島を中心に千島列島など)と2隊に分かれ調査・探検し、各地の地理、産物をはじめ異国との通航、交易の模様を調査しようとするものでした。

顔ぶれは、普請役・山口鉄五郎、庵原弥六(いばらやろく)、青島俊蔵ら5名と下役・里見平蔵、引佐新兵衛、大石逸平ら5名、それに部下などが配置されました。

なお、庵原弥六は、宗谷で越冬するこになり水腫病で命を落としています。
この調査隊には、測量技術者として後の蝦夷地探検家として名をはせる最上徳内も同行しています。

■水腫病による最初の犠牲者

東蝦夷の一行は、択捉島には渡ることができず松前経由で江戸に戻っています。西蝦夷の一行は、庵原弥六が樺太を調査し、8月に宗谷に戻り、翌年の調査に備え、宗谷の冬の寒気がどのようなものか身をもって体験するため、運上屋で越冬します。
しかし、弥六をはじめとする11名中、案内役の松前藩士や通訳など5人が死亡します。死亡原因は、水腫病とされています。

のちの1807年(文化4)から1808年(文化5)にかけて同じ宗谷で北辺警備を担当する多くの津軽藩兵(弘前藩兵)が、同じ病気で亡くなる悲劇の22年前のことです。

1786年(天明6)江戸幕府内の政変が勃発します。
将軍・徳川家治の病がおもく、老中・田沼意次は、病と称して辞職、蝦夷地開拓に熱心だった勘定奉行・松本秀持も左遷され失脚すると、この「蝦夷地調査隊」は、中途で断絶してしまいます。
調査隊は、帰還を命じられ、江戸に着くや解雇されています。

普請役・山口鉄五郎らは、地理・産物・ロシア情報などを詳細に記録し、「蝦夷拾遺(しゅうい)」4巻に纏めますが、蝦夷地調査が中止になったという理由で幕府に受理されませんでした。

この頃、平助の影響を受け、同じ仙台藩医・林子平(1738~1793)も『海国兵談』(1791年刊行)を著しています。

『林子平 肖像画』

■老中・松平定信と『クナシリ・メナシの戦い』(寛政の乱)

田沼意次の政策に批判的な松平定信は、1787年(天明7)老中首座となります。

松平定信(1759~1829)

定信は、当初、ロシアへの対処として蝦夷地を不毛のままとし、開拓しないことが日本の安全につながるとし、引き続き松前藩に蝦夷地統治を委託すべきであると考えていました。

しかし、蝦夷地を放置できない事件が1789年(寛政元)5月に起きます。『クナシリ・メナシの戦い」(寛政の乱)です。

松前藩の財政は、蝦夷地の交易による利益で成り立っていました。
当初、松前藩主や家臣が直接、アイヌの人々と交易をしていましたが、徐々に商人に任せるようになります。
この交易を最初に行った商人が飛騨屋久兵衛(武川久兵衛)でした。
久兵衛は、元々、飛騨(岐阜県)出身の木材商でしたが松前藩に多額のお金を貸し付け、松前藩は、そのお金を返却する代わりに根室、国後島などのでの交易の権利を飛騨屋に与えていました。

しかし、根室や国後島には、強力なアイヌ人の勢力があって飛騨屋の交易は、うまく進みませんでした。
飛騨屋は、元来、材木商でしたので山から海への、いわゆる”畑違い”の事業転換に苦しんでいたということです。

飛騨屋は、実績をあげる為、労働力として雇っていたアイヌの人々に対し非道を重ねていきます。アイヌの人々は、自分たちの食べ物にも事欠く状況で
餓死者も出ていました。アイヌ女性に対する暴力などもあったといいます。

アイヌの人々への、このような理不尽な扱いに対し激しい怒りが遂に爆発します。これが『クナシリ・メナシの戦い』(寛政の乱)です。

1789年(寛政元)国後島のアイヌ41人が飛騨屋の支配人など和人22人を殺害、そのあと、メナシ(現 羅臼町)で49人が殺され、合計71人が亡くなります。
事件を知った松前藩は、鎮圧するために兵を送り、直接、殺害に加わった37人のアイヌを処刑しました。

『寛政の蜂起和人殉難墓碑』(根室市指定有形文化財)            出典;根室市HP
『ノツカマップイチャルパ』の様子   根室半島の霧多布・ノッカマップ場所跡で行われたアイヌの供養祭(イチャルパ)の様子                     出典:根室市HP

この事件あと、松前藩は、アイヌの人々を完全に支配下に置いていくことになります。

このような状況下の1792年(寛政4)秋、ロシア初の公式使節アダム・ラクスマンが蝦夷地の根室に来航するのです。





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