会えないから悲しい
仏教的に死は悲しいことではありません。
次元や、環境が変わるぐらいの感覚です。
ではなぜこんなにも、悲しくて、辛くて、怖いのか。
悲しみや辛さには、もう二度と会えないという事実が突き付けられるからです。
当然ですが、死んだ人に現実の世界で会うことは不可能です。
会えたような気がしても、原理的には錯覚となります。
冷たいようですが、実際そうです。
死そのものが悲しく辛いのではなく、会えないという事実が悲しく辛い思いを引き起こしています。
怖さはというと、『わからないものに対する恐怖』です。
色んな宗教で死生観についての哲学が語られていますが、死後の世界観についてこれが正しいという考え方は存在しません。
勘違いされがちですが、お釈迦様ですらも全くといって良いほど、死後の世界観については語っていません。
ブッダが語ったのは生きている人々がどのようにして苦しみから脱却するか。ということがほとんどです。
浄土思想や極楽思想、輪廻転生、など死後の世界観はありますが、これらは自分がしっくりくるものを信じて少しでも安心材料にするための方便にすぎません。
宗派によって本当にまちまちです。
なぜわからないか
生きている人の中に、死んだ経験のある人がいないからです。
当たり前ですが。
死そのものは部屋をでて、隣の部屋に移るくらいのことです。
どんな部屋かわからないという不安と、二度と戻ってこれないという悲しみがあるということです。
こんなことが分かったからといって、大切な人の突然の死を受け入れられるわけはありません。
しかし、これをきっかけに生きているうちに感謝の気持ちを伝えることはできます。
明日の朝、いつもみたいに目が覚める保証はどこにもありません。
今を大切に行きましょう。
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