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長引く婚活の人

長年婚活している元知人がいる。(2桁年数)

もうそれとなく距離を置いてしまっていて、現在のところはどうか知る由もなく知りたくもないのでいまだ現在進行形とする。

自分が変わらない人、変わりたくない人、変わる必要はないと思っている人、変わったつもりだけの人はなぜそこを他人によって帳尻合わせしようとするのだろう。そもそも恋愛以前に人間関係とはそんな不健全なことではないはずなのだが。

婚活とは、「正しい恋愛」とは、愛情を与える、得ることとはなんだろうか。
アプリ婚活を終えてという過去記事にも記した通り、まずそこに至るまでにするべきなのは対異性ではなく対自分自身を真っ向から見つめ直す作業である。そこが大前提とする。

婚活を正しく早く完了させるためのキモはとどのつまり、感情論以前に自分自身に必要ない ・・のは何なのかを判断できるかできないかの基準の問題であり
出会えるまでのガチャをひたすらこなす地道な作業というのは大筋で合ってはいるけどちょっと語弊があるんじゃないかと思っている。
ひたすら会って関わってからやっぱり合わないなこの人は違うな、という場当たり的判断というよりは
初対面、またはアプリならただ文章にてひとこと話しただけで自分にとってのハズレは瞬時に判断できるはずだからである。

元知人の「片目をつぶってとりあえず会ってみる」「アプリで次々切り捨てていたら会える相手がいなくなる」という発言の意味がいまだによくわからないでいる。
どうして相手にピンと来てもないのに「とりあえず会う」のだろう。最初から違和感があるならそこから好転することなんて確実にない。究極に時間の無駄ではないだろうかと思っていた。

そのわりに知人から紹介された異性に対し、結婚したいかの意思がはっきりしないような人を紹介するなんて馬鹿にされた気分だ。条件的に違うと最初からわかっていたらそもそも会わなかったのに。でも紹介してくれる人の手前今更言えなかった時間の無駄だったと愚痴を言っていてわたしはさらにひたすら謎に思った。

「紹介者に会うと最終的に決めたのは自分では?なぜ強制的によくないもんを無理矢理つかまされたくらいの被害者意識になってるんだろうか」

人生で無駄な事なんて何もないはずで、何か縁があってよいほうにつながればラッキーだし、特になくてもそれはそのまま人生の経験値であり糧だ。
だからわたしは、「最初から○○と知っていたら○○しなかったのに」という意識が本気で死ぬほど大嫌いである。
積年の念もあり、結局わたしはその発言が決定打となって元知人と距離を置くことにした。

時間の無駄・・・・・ 」とは、個人で時間への価値観が違うだけかなとも思ったが
そういえば元知人は異性だけでなく友人知人、他人やはては社会への批判が普段から非常に多く、どちらかと言うと自分以外の評価は減点方式なんだなと気がついた。

他者への興味が強い傾向にあって、細かい部分が多く目につく性質が減点方式につながるのかと思う。
そしてそこに自覚はなく、なぜか自分は他者に興味がないと思い込んでいる
本当に他者に興味がないなら加点方式になるはずだ。
なぜなら薄情なほど他人のことはどうでもいいから良くも悪くも他人のことは目につかない。
そして最初から他人にはまったく期待してないから、目につくのは他者にされて、言われてなどして嬉しいなどプラスに感じたことのはずだからである。

わたしはこれだ。
聞こえはいいが、言い換えれば非常に人間としては薄情である。明るいだとか優しいだとか勝手に勘違いされることも多いが、ただ他人に興味がなくて人には何にも期待してないだけである。
なので他人に期待しないレベルが同じ性質の人間同士でないと付き合いを続けるうち冷たいとかドライだと受け取られることがある。その良し悪しは人によると思う。

そして恐らくだが、実は他人に興味のある人は興味のない人が心の底から大きらいなんだろうなと感じることがある。なぜならマウントを取られることがよくあるからだ。
が、しかし悲しいことに人に興味ないゆえそのマウントにすら気づかず、かなり後になってから「アンタそれマウントとられてんだよ…」と他人に言われてはじめてやっとあれマウント取られてたんか!と気がつく始末である。
一生懸命マウントとっても暖簾に腕押しなんだからそりゃ気に食わないよなあと思う。ごめんな反応してあげられなくて。でもさ、なんなら「私これからマウントとりまーす!うらやましがって!」って宣言してくれたらいいのに。
そしたらええー!すっっごーい!✨✨それめっちゃくちゃうらやましぃ〜〜〜〜いぃぃ!✨✨わたしにはできなぁぁぁい!✨✨って思いっきり心を込めて反応してあげるのに。
あ、こういうところですね。ごめんなさい。


話が思いくそ逸れたが

元知人は元来思い込みが強い傾向にあり、直接聞いたわけではない事柄を「こうに決まっている」と実にまるで本人に確証を得た真実のようにもっともらしく話す。
もはや酷い妄想レベルだなと感じることもあった。

私は自分のことを客観的に見ている。人の考えていることもわかる。
その人の目を見れば、少し話せばどんな人か大体わかる。そしてそれは外れない。と自信満々に豪語していたことだ。
なおどちらもただの思い込みで、そこには何の根拠も裏付けも無い。大体こういうときはこういうパターンだと当てはめて思い込むだけの勝手な決めつけである。

例えば人や心理に深く長く関わる職業だったり、勉強など長年積み重ねてある程度人の言動や動向を観察し「人となりを推察」することはもちろんできるとは思う。
しかし実際の正解は当の本人である自分以外の他人にしかわからないことである。人とは自分ですら自分を把握しきれないほどに多面的な生き物だからだ。

結局のところ本人への確認という明確な裏付けがないと本当の正解などはわからない。他人ができるのはパターンにあてはめて想像することだけだからである。
それをまるで占い師や超能力者のように自分にはあなたの考えがわかると言い切ってしまうのは、あまつさえあなたはこう考えていたでしょ!と自分の想像を裏付けもなく相手に突きつけてしまうのはあまりにも人として恐ろしいことだなとわたしは感じてしまう。
なぜなら通常の人間関係において、突きつけた推察が外れていれば即座に信頼を損なうし
たとえ当たっていたとしても必ずしもよい気持ちにならない場合が多いからである。

だれかの動向、言動から得た推察を都度裏付け、地道に確認していくことこそがコミュニケーションの正体である。推察までは誰にでもできることだが、コミュニケーション能力のあるなしを最終的に決めるのは推察のその先ができるかどうかなのだと思っている。

元々そなわる共感力の程度も関係するが、まず円滑な人間関係を築くにはこうした自分自身からの先回りアクションが何より必須である。この作業は1人ではできないし、習慣化するのは並大抵のことではない。よく考えたらコミュニケーションとは非常に不明瞭非効率かつ正解がない、異常なまでにしんどい作業でもある。
ゆえに、裏付けもされていない推察を一方的に突きつけるのは全能感もあってさぞ気持ちが良いことだろう。
まして一度でも、当たってる!すごい!なんでわかったの?など状況的にプラスマイナス場面関係なく言われたことがあるならば、もはや伸びた鼻はさらに伸び続けるだけである。自分の妄想なのかすらこの先疑うこともないだろう。

だれかを見放すときは、皆、何も言わずそっと去るのだ。歳を取れば取るほど指摘などされない。

身も蓋もないが本当に自分を客観的に見られているのであれば長年婚活などしていない・・・・・・・・・・・

上記の通りコミュニケーション能力もなく、加えて識字能力も高いわけではないが不思議と自分では両方高めだと思い込んでいる。
両方ともあるなしを評価するのは相対する他者であり、自分自身で能力の有無を自覚することはできないはずだが
いつも自分の能力方面には一切触れることなく「相手のコミュニケーション能力不足」「相手の識字能力の低さ」を批判することが多かった。
もし本当に両方の能力があるなら、まず自分自身の能力をかえりみるはずではないだろうか。

それとなく人間的、特に女性的な「かわいさ」を何となく嫌悪している傾向にあり、素直さ→媚びている・・・・・ に変換されてるのか、表情も常時固めである。
本人はいつもニコニコしているつもりらしいが、わたしには無表情に見える。かろうじてものすごくおもしろくて超笑っているときだけはわかる。
相手の気に入らない部分こそ自分の鏡写しとよくいわれているが、本当にその通りで元知人は婚活で出会う異性はいつも表情が固いと批判していた。

結婚相談所にも入会したようだが、最初はそこのカウンセラーをひたすら素晴らしい人だ!と過剰なまでにもてはやしていたのに、途中から急に見合い相手とカウンセラーの愚痴ばかりになった。
途中退会してしばらくしても、たかだか一回だか二回だか見合いしただけの関係で、かつとっくに終わったはずの相手を名指しでいつまでもあれがおかしいこれがおかしいと批判していた。わたしにはもはやなんのことだかさっぱりわからなかった。
それはアプリでの出会いでも同じ。たかだか数週間、数ヶ月しか交際していないはずの相手(なお一切肉体関係なし)をその倍の期間ずっと批判している。

わたし基準であるが、ある程度の年齢をこえたら肉体関係なしの恋愛はもはや恋愛とは呼ばない。ただのちょっと仲の良いだけのおトモダチ ・・・・・である。
体、心、時間、約束のすべてを共に経るということをしなければ、恋愛の相手として深く知ったことにはならないとわたしは思っている。
そのすべてを経ずして、さらに当然の如くうまくいかなくなってからネチネチ自分の正義のもとにとっくに無関係の相手をいつまでも批判している。本当にその人のことをよく知りもしないというのに。

いつも自分は何も悪くないのだ。
常に「自分だけは」間違っていないのだ。


たとえば思想の違い。
健全な関係であるなら「この人とはそもそも価値観が合わない」と感じたらそっと離れるはずのところ、なぜか元知人は相手を執拗に矯正しようとする。
それは絶対間違っている。一般的にこちらが正しい。将来的にそれは詰むのがもうわかっているからやめたほうがいい。と相手を説き伏せようとする。本人はそれが相手への思いやりだと思い込んでいるが、ただのモラハラである。

また話は逸れるが近年は男性→女性のモラハラが話題になったり槍玉にあがることが非常に多いように感じる。
しかし女性→男性のモラハラも、もちろん同性間のモラハラも確実に同じくらい存在していて、モラハラ加害者が女性の場合はうまいこと「優しさの中の厳しさ」だとかもっと有り体にいえば母性 ・・に変換されてしまうからより厄介だなと感じてしまう。
一般的にある程度の年齢までは社会的な間違いを矯正するのは実の親の役割であって、成人してから出会った相手ではない。
成人してからなら歩む方向の間違いに気づく気づかない、矯正するしないのも自己責任であり、他人の思想を変えようとするのはそこにどんな正義や愛情やら一般的にはド正当な理由があろうとそれは「他者へのコントロール」である。
けしてそれは、思いやりなどではない。勘違いしてはいけない。

もし身近な人間に対し「この人の前で失敗、失言できない」と少しでもかすかにでも感じるならそれはすでに立派なモラハラ被害である。
今後身近になればなるほど息苦しくなる。無言の圧力も多い。「自分はこうしたい」とはっきり言わずに遠回しに遠回しに圧力をかけてくる。何もかも自分の思い通りになるまで。

例えばわたしは元知人から「今の恋人が○○してくれた」「今の恋人が○○と言ってくれた」という微笑ましいはずの惚気を聞いても

「ああ『言わせた ・・・・』『させた・・・ 』んだろうな」

とうっかり自然に思ってしまうし、それはあながち外れてはいないと思う。
当たっていたとしてもどうでもいいが。


話を戻すと、婚活がうまくいかないのは結局のところ、それまで培ってきた他者への関わりかたに根本的な問題があるように感じる。
婚活でなくてもなんでもそうだろうが、「こうしたいああしたい」という強い願望に対して長年結果を出せないのであれば根幹を見直す必要があると感じる。
年齢がいけばいくほどみずからを見直すことは難関にはなるだろうが、根幹を間違っていたらいつまでも堂々巡りなだけだからだ。

元知人に関してこれだと確実に今後もうまくいかないだろうなと一番に感じたのは、まず何がしたいのかブレブレ、察して&受け身であるということ、さらにそこにまったく自覚がないこと。
その場では言わないのに、かなり後になってからあの時は本当はこうだった。というスーパー後出しジャンケンをしてくること。
アプリにて自分の写真を載せず、それでもいいねをしてきた相手に違和感を覚えながらもとりあえず会ってみるという謎行動。
アプリに顔を載せない人はわりと居るらしいのだが、わたしにしてみたら世界の七不思議にしてもいいんじゃないかくらいの謎でしかない。ネットに顔を晒すのが怖いのかなんなのか知らないしどうでもいいが、自分のことは隠したいけど相手のことは知りたい、話はそれからだまずお前のスペックを話せ!なんてその時点で既に恋愛として人間関係としてフェアじゃないし、いったい何がしたいんだろうと思う。
婚活どころか異性も恋愛もナメくさってんのか?

透視能力だかなんだか色々持ってるエスパーハイスペがたくさんのモブ平民からエテクシの心の美しさを見抜いて選び出してひざまずいて求婚してきてここからさらってってくれるのを待っているのだろうか。

いやんなことあるわけねえだろ

最初から対等でない人間関係なんて結婚以前恋愛以前の問題である。色々びっくり展開満載な昭和の少女漫画じゃねンだわ。あれはあれで面白いけど。

そして時間経過と状況によって意見が変わるのは当然のことだが、そもそもの根幹がぶれていることにはまったくの無自覚。わたしはこうしたい、という意思は口に出さずとも他人には伝わる。
逆にこうしたいという意思がないこともバリバリに伝わる。口に出さなくとも。
こういう人がいい、という基準がまるでない。恋愛経験も判断能力もないのに自分を好きになってくれる人から選ぶなんてことできるわけがない。
自分に自信がないんだか傷つきたくないんだか、怖がりなんだか知らないけど、だったら結婚も恋愛もやめたらいい。そして自分を守るために他人をひたすら批判するのもやめたらいい。
傷つかないキレーなだけの人間関係なんてありえない。

そして極め付けは経験がないなりにとりあえず交際してみて、とにかく他人にぶつかってみるという気概もない。言い訳は「年齢的にそんな時間ない」「恋愛経験がないからわからない」そんなこんなで何の苦労もなく恋愛も結婚もできたはずの花もはじらううら若き20代でうまくいかなかったのに、その先年齢を重ねてこのままでうまくいくとも思えない。

さらに自分からアプローチをするときも「好み」「タイプ」という動機ではなくこいつなら自分でもいけそう ・・・・・・・・・・・・・という動機だということ。
これに気づいてしまった時、これこそ婚活や恋愛での異性間におけるモラハラの根幹だということにも気がつき、身震いした。


・外見はまあよいが、スペックが自分に比べ劣る
・スペックは高いが、外見が壊滅的によくない
・上でも下でも年齢が離れているからいけそう


こうやって判断基準が「これなら自分のほうが高い、低い」だったとしたらそこから先に健全な愛情など生まれるはずがあるわけない。
どうしてか?「愛される=自分の言うことを聞いてくれる」→「相手を支配できるかできないか」という謎の勝ち負け問題にすり替わっているからである。もうすでにモラハラのかほりプンプンである。

無論そこに相手へのリスペクトなんて皆無皆無皆無、自分自身の異性関係の自信のなさを相手にカバーさせ、マイナス要素があればすべて相手のせい
無自覚でもそういう動機でいつも異性を選んでるのであれば、たとえ何十年と婚活を続けても実を結ぶことはない。
ただしたまたまうまい具合に色々と何かが弱い相手が引っ掛かれば話は違うが、これだと他者へのリスペクトがそもそも根本的に欠けているので遅かれ早かれ相手がどんな人で誰だろうが ・・・・・・・・・・嫌なところばかりが目立つようになる。

「ピンときた相手」ということはつまり「自分自身の自己責任にて今その相手を選んだ」いうことである。
だからもし万が一将来的にうまくいかなくなったとしても、けしてだれかのせい何かのせいにはしない。自分がいいと思って選び取った人だから。

いつまでもだれかの批判と何かの愚痴を言ってるのであれば、それは相手のせいではない。自分に原因がある。
結婚できないことが悪いわけではない。他人に向けて他人の批判をして、そこに同意を得たくなるところが悪いのだ。

元知人の婚活を通してよくわかったことは、モラハラだ!モラハラだ!と騒ぎまくってやたら相手を過剰なまでに批判する本人こそ母性を隠れ蓑にしたクソヤベェモラハラ加害者だということ。
出会う相手がいつもヤバイ奴だったと詳細に愚痴る本人こそ一番ヤバイ奴だということ。
人の批判、社会の批判、つねに何かの批判をしているのはいつでも自分が被害者で、自分の何かをどこかに責任転嫁しているからである。

そこに自分で気が付かないかぎりは婚活どころか、年齢がいけばいくほどまわりのまともな他者にこそどんどん距離を置かれてしまうんだろうなと思う。


最後に残るのがよき理解者であればよいが。

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