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おいしいおつまみ、あり〼


「あれ、篠原さん?篠原永子さんだよね?」

 ひどい夕立が来て苛立っていた矢先、偶然入った店先の軒下で、懐かしくて心地の良い声に捕まえられた。なんとなく聞き覚えのある声、まさかと思いながら、声の方に振り向くと、子ども一人分くらい空けた距離の先に竪山くんが立っていた。

「え…、竪山くん?え…、なんで?東京に就職したんじゃなかったの?」

驚きのあまり、声がうわずる。それと同時に自然と頬が上がるのが分かった。最近、うまく笑えてなかったのに、感情とやらは恐ろしい。
大学を卒業してから早3年、もう二度と会えないだろうなと思っていた、竪山くんがそこにいた。あの時と変わらない優しい声とこめかみまである栗色の髪をつれて。でも、ほんの少しだけやつれたかなと思う。笑うと昔よりも目元に深い皺ができていることに気が付いた。

「驚きすぎだよ、篠原さん。実は、こっちに先月から戻って来てるんだ。」

 そう言って、左手の細くて白い指で鼻のわきを触った。まだ、その仕草するんだ。指輪は、ない。無意識に彼の薬指を確認していた自分に気が付く。
大学卒業と同時に忘れていた、淡くて、薄くて、壊れてしまいそうな気持ちがゆっくりと足先から体中にじんわり広がっていくのを感じた。そんな自分を見られたくなくて、咄嗟に下を向く。季節外れのシルバーのパンプスの足先が、冷たい雨でじんわり濡れ始めていた。

「竪山くん、変わってないね、その癖。懐かしいな、なんか。」

「え、そうだっけ?そう言われてみれば、そうかもしれないな。」

「竪山くん、仕事でこっち戻ってきてるの?」

「まあ、そんな感じ。こっちでやりたいことあってさ。しかし、雨全然止まないな。」
「本当だね。むしろ雨足強くなってきてるみたい。」

目の前の通りでは、車の往来が止まらない。突然の雨に街ゆく人は慌ただしいながらもどこか浮き足立っているようにも見える。
雨宿り中の店からは、ほのかに暖かい匂いがし始めた。どうやら、そろそろ仕事終わりの人たちへおつかれさまを伝える時間になったようだ。

「篠原さん、久しぶりに会えて嬉しかったよ。通り雨じゃないみたいだし、俺タクシーでも拾って帰るわ。」

「えっ…。」

もごもごしてるうちに、竪山くんは、着々と帰る準備をしていたらしい。

「あ、そろそろタクシー来るみたいだ。じゃあ、またな。風邪引くなよ。」

目尻に沢山の皺を寄せながら、ぽんっと私の肩に手を置いた。じゃあと左手を上げ、前を向いて歩き出す。あ、あの時と同じ。あの時と同じだ。このまま竪山くんは、二度と振り向かない。そう、私が何も言わなかったから。
言えなかった最後の冬休み。あの時、竪山くんに思い切って伝えていたら、何かが変わっていたのかなとずっと思っていた。やった後悔よりやらなかった後悔の方がずっと痛い。痛くて深くて、なかなか治らない。まるっと刺さったまんま。

「ま、待って。竪山くん!」

咄嗟に体が動いていた。気持ちが口からこぼれ落ちてしまった。今日は、素敵な出逢いがあるって、テレビでも言ってたっけ。ラッキーカラーはシルバー色のパンプス。なんだ、今日がそのタイミングじゃない。

「もしよかったら、一杯付き合ってくれないかな。雨が上がるまで。」

「え?」

「その、あの、もう少し竪山くんと一緒にいたいって言うか…。」

前を向くと、キョトンとした表情で雨の中立ち尽くす竪山くんがいる。傘がわりにしてたカバンが雨で染みて、色が変わっていくのが見える。ああ、やっぱり気持ち悪いって思われちゃったかな。居てもたってもいられず下唇を思いっきり噛んで、濡れ切ったパンプスを見つめる。やっぱり、ダメか…。

「うん、そうしようか。おいしいおつまみ、あり〼って書いてあるし。」

「へっ…?」

「よし、そしたら寒いし、早速中入ろう。俺も、篠原さんの話聞きたい。」

そう言って竪山くんは私の背中を大きな手のひらでぽんっと押す。あ、これは初めて。肩は、いつもさよならの合図だった。背中を押されるのは、初めてだ。どうしよう。嬉しすぎて体が熱い。涙が出そうだ。

「うん!」

昔、昼下がりの教室で読んだ、フレーズがふと頭に浮かぶ。
−あなたに帰ってほしくない この雨がずっと続けばいいのに−

扉を開けると、カランカランといらっしゃいませが聞こえる。外は、稀にみる豪雨のようだ。雨上がりはいつになることやら。

「とりあえず、生ビール2つ!」

小粋のいい返事が聞こえる。

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