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チョコレートは甘いだけじゃない

※お立ち寄り時間…5分

「もー、今日は本当に最悪だった。」

いつもは、明るくて、穏やかで、ニコニコ笑顔の絶えない彼女が、土偶のような顔をして扉を開けた。

「紫水さん、いつものをお願いします。」

彼女は、ここをオープンした時からの常連さんで、毎週金曜日に必ずやってくる。ちょうどかけていたレコードが止まった。気づかれないように、彼女の好きな曲に針を落とす。

「珍しく、随分と荒っぽいね。」
「もー、色々とあったんだ。嫌になっちゃう。」
かいつまんで話すと、どうやら彼女と仲が良い先輩を好いている女が職場内におり、嫉妬されているらしい。彼女は、すこぶるモテるため確かに無理はない。それに加えて無自覚だ。罪である。

「その先輩と口裏合わせれば?」
「もちろん、プライベートは一切話さないようにしてるよ。仕事でも別部屋とか電話にしてる。」
「それでもダメなの?」
「そう。話すこと自体がダメみたい。仕事なんだから仕方ないじゃない。」
体中の空気を吐き出すかのような大きなため息をついて、モスグリーンのテーブルに突っ伏した。

「もー、なんで、趣味で踊ってるのかな。」

本当に珍しい。ここで愚痴を吐くのは、おそらく3年ぶりぐらいだ。確か、3年前に上海に異動になった恋人と上手くいかなくて、うずくまっていた時ぶりだ。そういえば、今は恋人いるのかな。次に来た時に聞いてみるかな。

「先輩は、趣味で踊ってるの?」
「そう。この間のお花見でね、ハイボール片手に、休日はスタジオで踊ってるよって。」
「ほう。」
「そんなこと言うから、転校生みたいにモテるんじゃんね。」
そう言って、リーフ皿に乗っているチョコレートを人差し指でつつく。チョコレートは、食べてくれないのかと寂しそうだ。

「その転校生がさ、こんな幼少期だったらどうする?」
「ん?」
「いつも仲良くなった頃に、転校するから親友が出来なかった。両親は、共働きで帰るといつも置き手紙ばかり。家にいても寂しいから、外で、踊りの練習を始めた。そしたら、たまたま見てた同級生が話しかけてくれて、一緒に踊りの練習をするようになった。その子が最初で最後の親友になった。」
彼女は、ふと顔を上げて、何かを思考するかのように顎に手を当てた。それから、チョコレートを一欠片口に含むと、うっすらと口を開く。

「何事も決めつけちゃダメだね。」
「そうだよ。色んな記憶があるんだから。」
「ってか、このチョコレート全然甘くない。」
そう言って、彼女は、随分と前に出したブランデー入りのミルクを口に含む。しかめっ面になり、眉間にはストライプ模様が浮かび上がる。

「ね。チョコレートは甘いだけじゃないよ。」
「本当だ。反省します。」
そう言って、彼女はいつものようにふわっと笑った。やはり、平和主義の彼女にはこの笑顔だ。いつもの甘いミルクチョコレートではなく、カカオの効いたチョコレートにしておいたおかげである。

「また来るね。」

そう言って、肩の上で切りそろえられた髪の毛をふわりとなびかせる。彼女からまた幸福の匂いがする。シンデレラとはいかないにしても、誰かの幸せそうな顔は、螺旋のように誰かの幸せをまた紡いでいく。

「いつでもお待ちしております。」

パタンと扉が閉まり、いつのまにか彼女の好きなレコードが終わっていたことに気がついた。やれやれ、つくづく余韻が心地いい。ただ、店内には、カチャカチャと彼女から離れたグラスを洗う音だけが緩やかに流れていた。

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