見出し画像

生きていく。【chapter39】

「わからない、は正義かもしれないね」

霧雨のように細く、静謐な。タカシの声がソノコを濡らしていく。

わからない。は、相手に対して誠実なことなのかもしれないね 。

わからないと言うと相手を傷つけるだろうし、何より、大切な人に理解できないと伝えるには勇気がいる。自分の至らなさを認める必要もあるし、嫌われるのは誰だってこわい。難しいね。でも俺は、「あなたのことがわかる」より「あなたのことがわからない」の方が誠実な気がする。

つい相手をわかっているような気になるのは、楽チンだから、努力せずにすむから、安心できるから。平和な関係性を保てるから。よき理解者よって良い人のふりをして、一番守りたいのは、「良い人な自分」なのかもしれない。だから相手を理解していると思うことは傲慢で愚かなことかもしれないね。

わからないから、わかりたいと思う。全部をわかることはないっていう前提のもと、いかに寄り添えるか。「あなたがわからない。けれど寄り添えるように頑張ります」それはきっと愛情表現の一つだよね。お父さんはお母さんをわかりたかった。その気持ちは確かにあったんだろうね。

ソノコは最後の三人の食事を、外を眺めていた母親の涼しい横顔を思い出す。タカシの老成した瞳を近い距離で見つめる。

きっと愛はあった、そこは否定しない方がいいと思うよ。愛のある思い出が心を支えることもあるから。人間は弱いから。

人間はつい自分の都合で、自分に都合が良いように過去を塗りかえてしまいたくなるけれど、都合が悪い過去と一度は向き合って受け入れないとね。受け入れたら一度きちんと絶望する。絶望したら何か一つ、大切なひとつを握ってまた立ち上がって前へ進む。そうすれば絶望は自ずと希望に変わるから。前へ進むしかないから。

底力って、すごくいい言葉だし、好きなんだけど、つい簡単に使ってしまいがちだけど、すごく辛い言葉だなって思う。読んで字のごとくで、底まで落ちないと手に入れられない力なんだよね。そんな力いらないからドン底になんて落ちたくないって考え方もあるだろうけど。でも、一度手に入れたら生涯のお守りになるかもしれないよね。袋には希望って縫いがある御守りかもしれないな。

タカシはミサオを思い出す。

「ミサオはハーフ?」

ミサオの色素の薄い瞳をのぞきこみ、幼い頃のタカシは何度もたずねた。銀色の髪を後ろで編み込みにしていた。自分の若白髪はミサオ譲りだとタカシは思う。リョウくんの瞳の色も。

「ハーフではないけど、タカシくんもリョウくんもミサオに似て美形ね。ミサオの希望の星」

抱きしめてくれた。ミサオがリョウを抱きしめようと、腕を伸ばすと、

「やめろ、くそばばあ」

リョウは必ず腕を払っていた。

「産まれたときから三六五日反抗期。リョウくんは素直じゃなくてかわいい。タカシくんは素直でかわいい」

笑っていた。

タカシは今どこを見ているのだろう。あまりに厳しい、タカシの遠くを見つめる強い瞳。その瞳の強さに、言葉を発することを躊躇う。ふと我にかえったタカシが、

「ごめん。結婚も離婚もしてないくせに」

微笑み、ソノコの胸に顔を埋め深く長く息を吐く。胸を温める。数秒後顔をあげ、

「今度リョウくんにも聞いてみよう。なんて答えるか」

いつものタカシの柔らかな瞳にソノコは躊躇いを解き、

「愛について?それは聞かなくてもなんとなく分かるじゃない」

タカシはふふっと笑う。

「考えたこともない」

面倒くさそうにムッと答えるリョウが目に浮かぶようだとタカシは思う。

*********

「わからないは、正義」

リョウの緑がかった瞳を見つめソノコは呟く。病院の静かな食堂、からっぽの弁当箱、紙コップのコーヒー、こなこなするチョコレート。雨のような声、笑うと細くなる目、白髪、銀色の腕時計、「心臓の音、聞かせて」「動いてる、動いてる。生きてる」。

廊下から涼やかで誠実な院内アナウンスが聞こえる。

午後の閑散とした食堂を後にし、二人でエレベーターを降りるとリョウは、

「じゃ」

短くソノコに声をかけ空の弁当箱がはいった黒に近い濃紺色の保冷バッグをソノコに返し背中を向け歩き始める。ソノコもまた出入口に向かう。

「ソノコ」

呼ぶ声に振り返ったソノコをリョウが見つめていた。真っ直ぐ。

「またな。また、あとで。気をつけて帰れよ」

あの日言えなかった短い言葉。そしてリョウの唇は何かを訴え、祈り、切実に動き続ける。病院のざわめきに、細く心許ないリョウの囁きはかき消されるが、ソノコの耳にそれは届く。

「いなくならないで。タカシみたく」

三人のドライブ。助手席で居眠りするリョウとハンドルを握るタカシの後ろ姿。違反や事故と無縁だったゴールド免許の安全運転。シートベルト未装着の事故。休日も、時には寝るときも身につける習慣があった腕時計と携帯電話はタカシの部屋のダイニングテーブルに置かれていた。

リョウに歩み寄る。ソノコはリョウを見上げる。

「リョウくん。今までそばにいてくれてありがとう。私はね、リョウくんといるとタカシくんを思い出す。今も私の中には、タカシくんがいる」

カノン。三時のカノン。

記憶も朧な子供の頃。隣に引っ越してきた男の子はバイオリンを習っていた。日曜日の昼過ぎには必ずきらきら星が聴こえ、ソノコは心の中だけで「しずかちゃん」と、耳を押さえた。いつからか、耳を押さえる必要がなくなり、バイオリンが聴こえない日曜日は「きょうはバイオリンきこえない」とさえ感じるほどに変化した。きらきら星の変わりに、静かな、思わず目を閉じてしまいたくなる静かで眠い曲が聴こえた。母にたずねると、タマキはなぜか嬉しそうに話した。

「カノンよ。素敵ね。あの子、『生意気で我が強くて変に大人びて手が焼ける』ってママがすごく辛そうに嘆いていたけど。カノンと彼はグッドケミストリーだわ。本当はカノンみたいに優しい子だと思うのよね」

日曜日のバイオリンはそのうちほとんど聴こえなくなり、家族はソノコが知らぬうちにまた引っ越していった。

リョウのうしろ、病院のざわめきのうしろ、控えめなボリュームの静かなカノンが、確かに聴こえる。高い天井から、白い壁からカノンが二人に降り注ぐ。グッドケミストリー。

ソノコは大きく息を吸う、真っ直ぐ、黙ったまま見つめ返しているリョウの、強く輝く瞳を見つめる。

でも、

「でもね。リョウくん。私はリョウくんと生きていく」

カノンが聴こえる。

病院の外に出るとソノコは足を止め車の鍵を握りしめる。空を見上げタカシを探す。ほんの微か風は吹くが雨は降りそうにない。

顔にかかった髪を耳にかける。

リョウのマンションに帰る前に、スーパーに寄ろうと思う。リョウが言うところの「こなこなする」チョコレートと白檀でなくラベンダーの香りの線香を買おう。それに、酸味の少ないまろやかなコーヒー豆も。と、高く遠い空を見つめる。いつかの夕暮れの空を泳ぐ二頭のクジラを思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?