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川と学生さん(と女給さん)

今はどうだか知らないけれど、その昔、『アルト・ハイデルベルク』という岩波文庫の一冊がある種の「マスト本」だった時代があった。映画『天井桟敷の人々』や『ブリキの太鼓』と、いわばセットになった「学生さんご用達」の本であることを、だが当時、京都で「学生さん」になったばかりの無教養な私は知る由もなく、周りの人が「やっぱアルト・ハイデルベルク、いいよね」などと嘯くのを耳にして焦って読んでみた口ではあった。

その日から数十年経ったある日。チューリッヒ大とチューリッヒ工科大、それに京都大の合同主催のシンポジウムだかがあり、門外漢の私もシンポジウム終了後の食事会に誘っていただき、京都大学の現役の先生や学生さんたちとご一緒する機会を得た。その席上、出たんですね、この『アルト・ハイデルベルク』の話が。

そんなものを読むのはてっきり文学部の学生だけかと思っていたのは大間違いで、生物学や農学や物理学などの研究者さんたちが口を揃えて「ああ、読んだ読んだ、学生の時に」とおっしゃる。そしてさらに続けて「ところがあれ、ドイツ人、誰も知らないんですよね」と。「ハイデルベルクに学会で行った時に、ああ、ここはあのアルト・ハイデルベルクの街だよな、と感動して、その感動をその場の人と分かち合おうとしたのに、その場にいた人たち、口を揃えて知らない、聞いたことない、というんですよね、これが」

ああ、やっぱり、と私は仲間を発見してちょっと嬉しかった。ドイツ語圏スイスでも、(日本人以外で)この戯曲を知っている人に出会った試しがないからである。

翻訳文学の世界では、時々こういうことが起きる。たった一人の紹介者の存在が、遠いどこかの国で、ある書物に何らかの付加価値をもたらし、多くの愛読者を生む、そしてその書物が、生まれた国やコンテクストにつながる「へその緒」をいつしか断ち切って一人歩き始める、ということが。

『アルト・ハイデルベルク』はドイツの作家、ヴィルヘルム・マイヤー=フェルスター(1862-1934)の戯曲。ドイツでも一応、芝居になったけれど、のちにブレヒトに「陳腐なロマン主義」とこき下ろされるなどするうちに、ドイツ文学史ではかなりマイナーな存在になってしまったらしい。

以下、内容をウィキから抜粋。

ドイツのザクセン地方のカールブルク公国(架空の国、実際にあるのはコーブルク公国)の王子、カール・ハインリッヒは、両親が早く亡くなったため、後見となった叔父の大公に育てられてきた。学齢に達した王子は、晴れて学生生活を過ごすべく家庭教師の哲学博士とともにハイデルベルクにやってきた。王子の住まいはネッカー川そばのリューダーという下宿屋で、1階は居酒屋兼食堂になっていていつも学生たちで溢れかえっていた。リューダーの遠縁で、ここで女給として働いていたケーティは、たちまち王子に夢中になった。そして、4か月がたち、いっしょにパリに連れていってあげるから、とびきり上等のドレスでおめかしして待っているように言われた直後に、王子の国元から使者がやってきて、大公の容態が悪く、直ちに帰国して欲しいとの知らせを伝えた。王子は1年の予定だった遊学を早々に切り上げて帰国を余儀なくされた。
それから2年後、カール・ハインリッヒはカールブルク大公となった。2週間後に不本意な結婚を迎える予定の彼のもとに、ハイデルベルクでの短い学生時代「いつか自分が大公になったら給仕長に取り立ててやるぞ」と約束した相手のケラーマンが訪ねてきて、ハイデルベルクの人々の消息を語った。そこで大公は青春の思い出のハイデルベルクが懐かしくてたまらなくなり、ケラーマンを伴って再びハイデルベルクを訪ねることにした。
しかし、ハイデルベルクの街はすっかり変わってしまっており、学生気質も変わり、リューダーの居酒屋も学生たちが寄り付かなくなっていた。ケーティもまもなく結婚を控えていたが、彼女だけは大公のことを忘れずに思ってくれていた。再びハイデルベルクを後にする大公の胸には青春のハイデルベルクの思い出だけが残っていた。

いまどきの感覚からすれば、確かに何とも陳腐で他愛ないストーリーではあるが、翻訳を介し、これが当時の日本で非常にウケた。

再びウィキより。

日本での初演は1912年に有楽座で文芸協会が行ない、松井須磨子がケーティ役であった。その後滝沢修、山本安英、杉村春子などが1924年、1926年、1934年に築地座、築地小劇場で出演している。1931年10月に宝塚少女歌劇団(現宝塚歌劇団)月組によって『ユングハイデルベルヒ』という題で上演が行われて、その後何度も宝塚少女歌劇団で上演される作品になった。1977年8月には日生劇場で『音楽劇 若きハイデルベルク』と題して中村勘九郎と大竹しのぶ主演で上演された。

なんと宝塚までもがこれを取り上げたのでした! とまあそんなわけだから、当時、京都の大学に在籍していた私の耳にも、またもしかしたらさほど文学など読まないかもしれない理系の青年たちの耳にもその評判が届いた。それだけ揺るぎないポジションを得ていたということだろう。

若い頃に読んだもの、とりわけその舞台となる土地や言葉や文化について全く予備知識がない状態で読んだものが掻き立てる妄想や誤解の果てしなさ、その息の長さには実際、すごいものがある。40年近い年月を経てなお、ハイデルベルクといえば私にとっては『アルト・ハイデルベルク』以上でも以下でもない。心優しく姿美しい青年公子と居酒屋の娘との淡い悲恋、青春の一コマのノスタルジー、美しい川と古い建物からなる由緒ある学生街。そのイメージを自分が知る唯一の古い学生の街「京都」に勝手に結びつけ、ネッカー川はそのまま鴨川のパラレルとしてインプットされ結晶化したまま今に至っているほどだ。

その妄想をすっかり持ち越したまま、この度、ついにハイデルベルクの実物と対面した。コロナでどこへも出かけない日常が常態化して久しいが、そんな中、この度七ヶ月ぶりに英国の大学へ戻る「決意をした」娘をデュッセルドルフ空港まで送っていくことになり、だったら帰り道に「あのハイデルベルク」に立ち寄ってみようじゃないの、という運びになったのだった。

はたして、実物のハイデルベルクは幸いにして妄想ほぼそのままのヴィジュアルでそこにあった。こちらもちょうど新学期が始まる頃なのだろうか。スーツケースを転がして下宿に向かう様子の若者の姿をたくさん見かけた。ああこの子も春以来、オンライン授業しかないまま夏休みに突入して、ようやっと大学に戻ってこられたんだろうな、嬉しいだろうな。あっちのあの子は新入生かな? 親に付き添われ、ちょっと不安そうな面持ちだ。「下宿を営んで6代目」などという看板を掲げた建物も目にした。いかにも学生向きらしいカフェやビアホールもたくさんある。京都と同じように、ここにもまた「哲学の道」と名付けられた道があり(ただし、人っ子一人いない)、その道にたどり着くための急勾配のくねくね登り坂には「蛇の道」という名がついていた。ネッカー川は鴨川よりずっと大きくて水量も多そうだし、御所の代わりにこちらには山頂に古城がそびえていた。そのお城が夜、美しくライトアップされている様は、なんとなく大文字焼きを連想させた(やや無理のある連想であることは重々承知している)。

わずか12時間ほどの短くも印象深い滞在中、だが一つだけマイナスポイントがあった。それは到着した晩、遅い夕食をとるために入った居酒屋のような店で、店員の若い金髪ポニーテール女子に大変感じ悪く扱われたたこと。ムッとしながらも、『アルト・ハイデルベルク』の女給ケーティがどうしてもその金髪女子に重なってしまう。その彼女、だが他の男性客たちや、また遅れてやってきた私の連れ合いには、なんだかやたら親切なのがますます癪に触るではないか。人種差別なのか、単に男にのみ親切なタイプなのか知らないが、物語の中の純真で可愛らしいケーティだって、実際はそんな女だったかもしれないな、などと思いながらパクついたヴィンナーシュニッツェルは、ウィーンのそれより分厚くて柔らかく、まあ普通に美味しかった。大竹しのぶ演じるケーティというのも、その意味ではなかなか良いキャスティングだったかも、などとついでに思う。

古い大学町に身を置きながら、そういえば、娘の大学のある町にも真ん中にきれいな川が流れていたっけなと思い出した。川というのはいいものだ。なぜならそれはどこからか来て、どこかへと流れていくものだから。海や湖や池を人生に例えるのはちょっと不自然だけれど、川なら容易にそれが叶う。川べりに座ったり、橋の上に佇んだりしながら水の流れを眺めているうちに、ホームシックや勉強の辛さ、人間関係のしんどさが少し癒されるような経験をする人は案外多いんじゃないかな、と思う。コロナ騒ぎがいつまで続くかわからないし、我々シニアと違って、若い人たちにとってコロナ禍中の「この一年」「この夏」「この学期」は今しかない、取り返しのつかない時間のように感じられるに違いない。それが泡ぶくのように一つ、また一つと失われていくことに焦りを感じない人は少ないだろう。でも流れる川がやがて大海にたどり着くように、どこのコースを通っても、どこかで多少足踏みしても、それこそ清濁併せ呑んで止まることなく流れ続けていく川の存在は、そんな渦中にあっても少しだけ希望を与えてくれるように思う。大学街に川が流れているのは、だからとってもいいことなのだ。

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『アルト・ハイデルベルク』で妄想を膨らませた若い私は、だが、あの物語の時代背景の中では「女給」の側に身を置く選択肢しか自分にはなかったのだ、ということなど、当時は思いもよらなかった。「学生さん」という京都の有名な呼称だって、考えてみればそれはもともと「三高→京大」コースを辿る男子学生のためにあつらえられた言葉だった。旧制高校生たちが街のカフェーの女給を「メートヘン」と気取ってドイツ語呼びしたのも、元はと言えば『アルト・ハイデルベルク』に象徴される外国産「青春」コンセプトに乗っかって酔いしれていたホモソーシャル文化の一表象にすぎない。エリートを自認する男子学生(やだね・笑)が居酒屋の女給をナンパして淡い恋に落ちる。それも「身を固めるまでの束の間の時間」限定の恋(失礼な話だ)。男子学生が、そんな『アルト・ハイデルベルク』の世界に当時憧れたのは無理からぬこととして、なぜその世界からはじき出されていた自分までもが、と、今の私はただただ自虐的に苦笑するほかない。

それはともかく、確かにハイデルベルクは美しい街だった。どこまでも平らなドイツの中にあって、起伏に富んでいることだけでも新鮮だし、ゆったりとしたネッカー川がそこにみずみずしさをもたらす。そして戦争中の空爆を免れた旧市街は地元の赤い石を使った建物が連なり、その統一感がとても美しい。街を行き交うたくさんの溌剌とした女子学生の姿を見ながら、いまどきの「学生さん」は男も女も関係なくっていいな、とちょっと羨ましかった。

「この時期乗り越えた若者は、きっと我慢強く良く考える人になるから、頑張って、とエール送っておいてくださいな」ーー今や英国で最悪のコロナ状況を呈している地区にある大学。どのみち授業はオンラインばかりだろうし、そもそもスイスからそこに戻るには二週間の隔離義務が課せられる。にもかかわらずそこへ戻る決意をした娘へそんな伝言を届けてくれたロンドン住まいの旧友がいる。小さい頃からの娘をよく知る、娘にしてみれば「ロンドンの叔母ちゃま」みたいな存在の彼女。そうだね、その通りだね、と私も思った。世界中の学生さんたち、今、辛いだろうけど、不安だろうけど、大丈夫、我慢強く良く考える人になれるよ、きっと。


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