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地球のこっちとあっちにたまたま生まれ落ちて

昇天祭の休日と週末に挟まれた金曜日。天気予報では雨のはずが、ぽっかりと晴れた。思い立って朝市に出かけ、その近所に住むコンゴからの友人Aさんに「コーヒーでも飲まない?」と声をかけてみた。長引くコロナ下のスイスで飲食店は屋外のみ営業が許されているので、晴れないと外でコーヒー一杯飲めない。雨天続きの5月。こんな機会はまたいつ訪れるとも限らない、思い立ったが吉日、カルペディエムである。

コンゴからの友人、と書いたけれど、そしてその思いに偽りはないけれど、彼女はまた、コンゴからの難民でもある。正確にはコンゴ民主共和国。知り合って2年くらいになるのかな。Aさんの辿ってきた想像を絶する苦難の人生について、だが今日は触れない。その朝、私たちはチューリッヒのヘルヴェティア広場脇にあるカフェのテラスに向かい合って座り、テーブル上のQRコードから感染経路追跡用アプリに個人情報を登録。いつものように私はカプチーノ、Aさんはラッテマキアートを前に、のんびりと日常のおしゃべりを楽しんでいた。私の足元には、マーケットで買ってきたばかりの新鮮な野菜の入ったカゴ。久しぶりの晴天に、心もいくぶん軽やかだ。

そうこうするうちにAさんの友人、彼女が「私のメンター」と慕うスイス人女性、マリアのことに話が及んだ。パートナーのトーマスと共にAさんの日常の面倒を何くれとなくみてくれて、困ったことがあったら真っ先に頼る相手なのだという。天涯孤独の彼女にこの地でそんな友人がいてくれることを私もまた、ありがたく思う。

「二人にはそれぞれ前の結婚相手との子供がいるんだけど、トーマスの娘さんっていうのがちょっと大変でね。なんていうんだっけ、ご飯が食べられない心の病気を抱えていて」

「アノレクシア?」

「あ、そうそう、それ。そのアノレクシアっていうので、もう三年くらいお医者さんにかかってるって」

「それは辛いね」

「私がスイスに来たばかりの頃、まだ難民センターに住んでいた時期だからもう10年以上前になるけど、何かの検査が必要で病院に行ったのね。そしたらそこの病院のある階がフロアごと、全部、そのアノレ・・なんとかの患者さん専用になってて」

「うん」

「そこを通って別の棟に私は行くわけなんだけど、入院患者さんとすれ違うじゃない。もうこんなに細いの、どの子もどの子も」

そう言ってAさん、親指と人差し指をくっつきそうになる程に近づけて見せてくれる。

「もうびっくりしちゃって。その女の子たちの病気と、トーマスの娘さんの病気が同じものらしいのよね、どうも。コンゴにはそんなのなかった。聞いたことないもの。一体、どういう病気なの?」

それは先進国に共通の現象で、とりわけ若い女性がかかりやすいこと、その背景には、ファッション産業やソーシャルメディアが押し付ける美の基準による呪縛だとか、消費社会だとか、少女から大人の女性への移行に伴う困難や家族関係など、多数の要素が絡んでいること、そこからの回復はなかなか難しく、時間もかかること、アノレクシアをはじめとする摂食障害に苦しむ人がスイスでもその他のヨーロッパ諸国でも、そして私の祖国、日本でも信じられないくらいたくさんいること、そして先進国においてアノレクシアは若い女性の死因の筆頭であること、などを拙い言葉でゆっくり話した。

「なんということ・・・」

Aさんは、ただただ目を丸くして唖然としている。

「摂食障害、つまりそれは、豊かな国々で起きてしまう、現代の、一種の・・・」

そのあとに「・・・贅沢病」というような言葉が出てきそうになるところで、だが私はぐっと思いとどまった。なぜなら、贅沢病という言葉には、その現実を矮小化、あるいジャッジする視点が滑り込んでいることをもちろん私は知っていたから。安易で軽薄な落とし穴にするりと落ちそうになるところを、もう一人の自分がすんでのところで後ろから引き止めるような感じだっただろうか。

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Aさんは私とほぼ同い年。私は高度成長黎明期の日本の地方都市に生まれ、塾など無縁の時代に普通に大学まで公立教育を受け、長じてからは世界のあちこちに移り住んだ。幸いにして、身近なところで戦争も飢餓もクーデターも経験したことがない。Aさんは宗主国ベルギーから独立を果たして「共和国」になったばかりのコンゴに生まれた。8人の子供に恵まれ、オウムや鶏を飼って忙しく暮らしていたところに内戦勃発。家族は散り散りになり行方知れず。15年前に難民としてスイスに到着するも、難民認定を受けられなかったため、今も最低ランクの不安定な滞在許可証しか保持できず、社会保障の世話になってなんとか生きている。他方、トーマスさんの娘さんや摂食障害病棟に入院する患者たちの多くは豊かで平和な時代のスイスに生まれ、若い時間を謳歌するはずのタイミングでコロナに遭遇。成長段階のある時点より、摂食障害にかかり、今も闘病中。

歴史上のどのタイミングで、世界地図のどの地点でこの世に生を受けるかは、本当に全くの偶然に過ぎない。内戦真っ只中の国に生まれることも偶然ならば、豊かで平和な国に生まれることもまた偶然。普通に考えれば、長引く内戦やエボラ熱で何百万人もの人が亡くなってしまうような環境に生まれ落ち、家族も残らず消息知れず、祖国をあとにして二度とそこに戻ることが叶わないような人生に勝る気の毒さなどない。けれど、今、この瞬間にもトイレで食べたものを吐かずにいられない少女、胃酸で荒れ果てた喉、骨と皮ばかりに痩せこけても「食べる恐怖」から逃れられないでいる少女たち一人一人の苦痛が、それより「マシ」と安易に断定することもできない、いや、するべきではない、と私は思うのだ。

この世に生を受けるタイミングや場所や環境は「偶然の産物」であり、その偶然自体を人は選んだり変えたりすることができない。人の苦悩や悲しみに上も下もない。一人一人の人間が背負う十字架は、それが十字架であるというその一点においては全く同じ。そんなことをぼんやり思いながら、冷たくなったコーヒーの最後の一口を飲み干した。気がついたらあっという間に二時間も経っていた。

そろそろ行こうか。二人揃ってカフェをあとにし、ヘルヴェティア広場を並んで横切ると、あれほど賑わっていた朝市のスタンドはあらかた引き払った後。積み重ねた最後の木箱をトラックの荷台に運ぶ農家さんの姿をいくつか残し、広場はがらんとしていた。

「ねえ、この人たち、もうこれで帰っちゃうんでしょう。残った野菜や果物はどうするんだろう?」とAさん。

「まあ、毎日のように市内のどこかでマーケットがあるから、また別のところで売るんじゃない?」

「それでも余ったものって絶対出るよね。どうするんだろう?」

「うーん、どうするんだろうね」

納得できない、という顔で、Aさん、何度も広場を振り返る。そういえば、昨夏、Aさんの誕生日を祝って二人でレストランで食事をした時、食後にカゴに余っていたパンを見つめ、「これはどうするんだろう?」と尋ねた時も、Aさんは同じように「納得できない」という顔をしていたっけ。

「え、このパンのこと? 捨てるんじゃないかな」

「捨てるの?」

「うん、そうだと思う」

「本当に?」

「うん、おそらく」

「じゃあ、持ち帰ってもいいと思う?」

「もちろんいいと思うよ」

バッグからティッシュペーパーを出してAさんに差し出した。数切れのパンをそれに丁寧に包んでAさんは自分のバッグにしまい込んだ。

長年住み慣れたスイスからアメリカや日本に行くたびに、食品から包装、使い捨て容器の類まで、なんと大量のゴミだろうか、と驚いてきたけれど、ゴミの少ないスイスの光景にもAさんを驚かせる場面がたくさんある。これまた、歴史のどの時点で世界のどの地点に生まれ落ち、その後、どんな人生を歩んできたかによって、同じ景色が違って見える、そんな例なのだな、と思った。

戦場を逃げ惑う女性や子供たちの姿と、暖かい部屋の隅っこで膝を抱えてうずくまるやせ細った女の子の姿が重なる。月並みな言い方だけれど、「助ける」つもりだった相手から、自分もまた、多くを学び、助けられている。それもまた、偶然の出会いがもたらした経験。年齢を重ねるに従って、偶然と運命との間の境界線はますますぼんやりと曖昧になっていく。



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