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デッドフラワーズ【小説


 小雨が私の赤い傘のナイロン生地を叩く。街は生ゴミのすえた匂いと人々が行き交うホコリが混じった匂いで、週末へと向かっていく。私はスナックの表看板に寄りかかってその人物を探す。夜は既に深い。タバコの持ち合わせが僅かなのに舌打ちしながら、私は人混みを覗くために首を真っ直ぐに固定する。
 程なくして「青年」は現れる。カーキ色のくたびれたコートをまとい、片手にはヴィニール袋をぶら下げて歩いてくる。その中身はほとんどジュースみたいなチューハイが2本、どこの産地か分からない唐揚げのパックと言ったところか。 
 私は彼が通り過ぎるのを待って声をかける「お兄さん、退屈そうじゃん」
 すると彼は長い前髪から覗く一重まぶたをチラつかせて言う。
 「悪いけど。俺そういうの興味ないから」何度とない勧誘を全てその一言で断って来たかのように、当然のごとく言う。
 私は素早く彼のコートのポケットに指を差し入れて彼を引き止める。
 「アラーム鳴ってる」
 彼は一瞬たじろいで、ポケットの中のスマホを手に取る。
 「あぁ、俺起きなくちゃ」
 「そうね、行きたくない会社に出勤しないとね」
 「どうして」彼は動揺する。
 「どうして俺が今起きて出勤しなきゃ行けない事を知っている?」

 そこで彼はアラーム音がけたたましく耳に流れ込むのを体感する。
 武咲佑斗は初めて気づいたかのように目を恐る恐る開く。そして今見た風景が夢なのだと知る。起きてしばらく朝の空気に身体を馴染ませてからゆっくり起き上がる。月曜の朝というものは人を憂鬱にさせるものだ。佑斗の場合尚更だ。
 アラームを止め、前髪を後ろに流し、よろよろと布団を出る。

 それにしてもあの夢。最近あればかり見る。俺はどこかを歩いていて、気づけば彼女は俺を待ち伏せしている。

 「あーあ、現実では朝なのかぁ。アイツ会社行けるのかな?」彼女は目の前から消えた彼を惜しみつつ、大きく伸びをする。
 80年代の古臭い、レザーでできたワンピース、赤い羽の首飾りを身につけ、同じく羽でできた扇子を口元に当てる。髪はダークレッドに染めて、前髪は下ろしたのと同じ分量で立ち上げている。ルブタンのヒールが幾度となく訪れた街の回数分、裏は擦り切れて彼女の足を痛める。
 「ちょっとは話を聞けってーの」

 彼女はそうつぶやくと、その場をターンするように街から出ていった。

 彼女こそがシスター・レイだ。全てを貫くX光線。売春婦のような出で立ちで街に立ち、佑斗の行方を追っている。
 彼女は佑斗の夢の中に棲む。

「興味がない」と答えたのは真実で、俺は男や女の呼び込みにも反応はしない。何故なら俺は世の中とで言うところの「アセクシャル」であるからだ。いや、「ノンセクシャル」か。俺は男女に対して恋愛感情は抱けるが、肉体関係までは必要としない。今一緒に同居している恋人の(果たして恋人と呼べるかどうかも確かではないが)いけちゃんこと池田大我はそんな俺を理解してくれるのか、身体に手は出してこない。彼は身も心もゲイである。俺は好きな人、と聞かれたら真っ先に「いけちゃん」と答えるだろう。そんな仲だ。

 白菜と豚肉のミルフィーユ鍋を囲みながら、俺はいつものように夢に出てきた「彼女」についていけちゃんに話した。
「それってさ、だんだん夢か現実かわからなくなるってやつじゃない?やだあたし怖いわ~心配ねぇ」いけちゃんは筋肉質の身体を窮屈そうにトレーナーに押し込んでモゾっと身体をひねる。大我のガタイは大きいが、話す言葉は乙女である。
 「大丈夫だよ」俺は自嘲する。たかが夢の話だ。日常には差し支えない。
 けれど、彼女が夢に現れるようになってから体重が減った。会社に行くのが苦痛になった。どことなく仕事中でもぼうっとする事が多くなった。何よりも朝早く目覚めるようになった。
 「彼女を見た朝は何故か悲しくなる、かな」
 そう箸を置いて呟くと、いけちゃんがヤキモチを焼いた。
 「えぇ~女でしょ?そんなんあたしなれない、無理ぃ。くやしい、私も夢に出たい」
 「って、いけちゃんそばにいてくれるじゃん」
 「それもそうだけど…」今度はいけちゃんの表情が曇った。それを振り払うかのように彼は鍋を催促した。
 「ほら、食べて。白菜の水分でお肉煮え煮えだよ!」
 二口三口、手をつけたところで佑斗の箸が止まった。
 「ごめん、もう食えねえわ」
 「あら、美味しくなかった?」
 「美味いよ。だけど入んねえ」
 「後でお粥作ってあげようか?」
 「いや、いらね」
 そう言って俺は立ち上がると、冷蔵庫からチューハイを取り出した。
 「食べないで飲んでる~ダメじゃない」いけちゃんが叱ると、
 「今晩だけ飲ませて」と俺は自分の部屋に戻った。
 明らかに自分の体調に変化が現れている。今晩は寝ないで起きていようかと思ったが、仕事に影響してはまずいので、飲んだ後渋々布団に潜り込んだ。
 遠くでいけちゃんが「お風呂は~?」と聞いてくるので、寝ぼけながら「…いらね…何もかも沢山だ」と呟きながら微睡んだ。

 

 夢の中で俺は黴臭い街の、テナントビルの3階にある小さなアメリカンダイナーにいた。オレンジのソファーに座り、アイスコーヒーを手元に俺はぼんやりと肘をついて頭を支える。目の前にはテーブルを挟んで、シスター・レイは注文したアメリカンドッグに目を輝かせていた。彼女が自分を「シスター・レイ」だと名乗ってから2週間目の事だ。
 「だからね、ここが重要なんだけど」
 彼女はアメリカンドッグにマスタードとケチャップを忘れない。黄色と赤に、彼女の紺色のグリッターの爪先がコントラストを残す。
 「あなたが信じようが信じまいがこれだけは事実なの」そう言って咀嚼する。俺は頭を動かずに目線で訴える。何の話だか、全然分からないと。

 「あなたが生きたいと願うたびに、私はあなたから寿命を1年分貰う」

 意味がわからない。なぜ俺から生きる年数を奪う?現に俺は今くたばりそうな思いで生きているというのに。佑斗は顎に手を添えると、シスター・レイは口をナプキンで拭った。フーシャピンクで彩られたクシャクシャの紙屑。それを見つめて俺は言う。
 「寿命を奪う仕事って、君は悪魔かなにかか?」
 「あ、言い忘れたけど私はあなたの悪魔でも天使でも無いわ。ただのジャンキーよ。他人から生きる年数を奪ってそれを続けるの。ハイになる為ならなんだってやってみせる」
 俺はそこで口を開いた。
 「たったそれだけの為に?君の快感のために俺は君に命をあげなきゃいけないのか?」
 シスター・レイは言う。
 「私は手段を選ばない。命を奪って予告する。大抵の人は苦痛の表情をうかべる。それを見てるのが好きなのよ」
 「そりゃ大したサディストだ。でも多分俺は長くないだろうな」カマをかけると、彼女は「まだ15年ぐらいあるわよ」とあっさり認めた。
 15年か。人生の3分の2は生きてきた事になる。

 「あなたのその態度」シスター・レイはレモネードをストローで啜る。
 「あなた、ちっとも動揺しないのが不思議だわ。普通の人だったらもっと泣きわめくか後悔するというのに」
 それは俺が今人生にくすぶりを感じているからだろう。それにもともと人生に執着しないからだろう。そもそもノンセクシャルとして生きている以上、他人にさほど執着もしない。俺にペットはいない。

 だが俺の命は自分のものだ。ただ奪われる身となっては納得がいかない。
 「なぜ俺なんだ」と問いかけるが、シスターレイはそれには答えず言った。
 「あなた、本当は世の中に対してものすごい怒りを抱えてる」
 「へえ」意外な指摘に思わず声が出た。
 「その怒りが今のあなたを支えてるの。身に覚えは?」
 「ないね」と即答する。俺はどちらかというと、怒りを現わさない方だ。
 「そう?」彼女が片眉を上げて、ずり落ちたワンピースの肩紐を正す。
 「あなたが怒りの力を現した時、とても美しい顔をしてるわ。思わずキスしたくなるぐらいよ」
 やめてくれ。俺は頭を掻く。確かに彼女は綺麗だが、抱きしめるにはあまりにもささくれだった気性に見える。
 「君に何がわかる」
 「分かるのはあなたの寿命だけ。ほら、生き続けて。私はそれを奪い取ってみせるから」
 そう言ってけたたましく笑うと、彼女はクラッチバッグからくしゃくしゃの千円札を二枚取り出した。
 「今日はこの辺りで」ひととおり説明を終えたシスター・レイがダイナーを去ろうとした。
 「シスター・レイ」俺は名前を呼ぶ。振り返る彼女は打って変わって可憐な表情を見せた。
 「そのブルーのアイシャドウ、よく似合ってる」
 彼女は不意をつかれたように振り向き、「約束は約束だからね」とまた不敵な笑みを浮かべた。

 シスター・レイは去った。
 要するに「俺が生きることを選べば、根こそぎ彼女が俺の寿命をかっさらう」という事だ。
 俺の今の心情としては、末期ガンにかかった患者よりもたやすいのだろうと言う事だけだ。
 ガソリンを撒き散らしながら走る車のようなものだ。飛ぶことを許されない鳥みたいなものだ。

 ふと、トーストの焦げる匂いが鼻を掠めた。そしてフライパンが水分を飛ばす音。いけちゃんが朝食の準備をしている。俺はくらり、と意識が飛び気がつけば布団の中にいた。俺は現実を確かめるように視界に見えるものをなぞった。先程までの重い宣告が嘘みたいに軽やかに意識が踊り出していた。だがそれは一瞬で、次は途方もない人生の距離について考え始めた。その景色はモノクロームの雲の形をしている。
 

 それからというものの、俺は生活するごとに息をするのも躊躇うぐらい、気を張りつめて毎日を送っていた。死の天使と対面してからというものの、俺は神経を尖らせた。いけちゃんは俺の変化に薄々気づいていたものの「しょうがないわねぇ」と甲斐甲斐しく毎日の料理を作ってくれた。
 いけちゃんは基本主夫ではあるが、持ち前の体力を活かして日雇いの土建のバイトに行ったり、運送会社のバイトに行っていたので、生活としては食費を負担してくれたので困ることは無かった。時々余裕のある時は彼はジムに行って身体を鍛える事を惜しまなかった。
 時々いけちゃんは「仕事で遅くなるから」と作り置きのおかずをテーブルに残して、仕事に出かけていた。俺は冷めたおかずをレンジで温めて1人でご飯を食べる。しかし、掻き込むほどお腹がすいている気がしなかった。いけちゃんに悪いと完食した時は、胃が痛くなりこっそりトイレで吐いた。咀嚼された卵や青菜、ご飯の粒が液体となって自分の口から押し戻された瞬間、申し訳なくて俺は涙が出た。
 いけちゃんに合わす顔もない。

 絶対絶命の女王、シスター・レイとは頻繁に夢の中で会うようになった。夢の中では自分は完全に自由で、俺はのうのうと彼女と軽く世間話を交わす。だが、目覚めた後、それが何を意味するのか現実に返ってまざまざと理解し、絶望した。彼女はよく言っていた、「夢に支配されるようになったら私の勝ちだからね」と。

 そんなある日、いけちゃんは晩御飯の後軽く1杯飲もうとする俺をやんわり引き止めた。
 「話があるの」
 と、いけちゃんは正座した。
 「あたしに息子がいるのは知ってるよね」
 「ああ」俺は返事した。
 いけちゃんには息子がいる。今では小学2年生だろうか。認知しただけのあまり縁がない息子だ。いけちゃんがまだ20歳の頃、自分のジェンダーに疑いをかけていて性的指向が定まらない頃、当時付き合っていた女性との間にできた子供だ。1度は家庭を持つことも考えたらしいが、やはり結婚はできなかったという。結婚しない代わりに親権は完全に彼女持ちとなった。よく聞けば彼女の親に自分のセクシャリティがバレて、子供に会わせて貰えなくなったとも聞く。
 「ちゃんと聞いてね、あたし、息子と暮らそうと思うんだ」
 いけちゃんの突然の告白に俺は動揺した。それは…それって…思いついたのは「擬似家族」という単語だったが、いけちゃんはさらに信じられない事を言った。

 「彼女ともう一度やり直して3人で暮らすの」

 その言葉を飲み込むのに時間がかかったのは否めない。俺は耳を疑った。
 「なあ…」いけちゃんの頬に触れようと手を伸ばしたが、彼は避けるように顔を斜めに向けた。
 「あたしという存在は1人しかいないの」と彼は決意を眉間に滲ませた。
 しばらく時間が経った。時計の針が進んでいく。 俺は何も言えず、冷蔵庫から発泡酒を取り出してから「考えさせて」と部屋に籠った。すれ違いざま「…うん」言い残すことを我慢したいけちゃんは密かに涙を流した。

 全てが失墜していく。自分の命がどうだとかいう話はどうでもよかった。俺はいけちゃんと離れてしまったら主を失った凧のように吹き飛ばされてやがてクルクルと落ちていくだろう。それをもう一人の自分が黙って見ているような感覚がした。

 マイノリティの俺にも愛があったのだ。
 気付かぬうちにそれを失おうとしている。
 俺の中で神経の末端が失われる音を聞いた。

 僕は結局、不機嫌なお母さんに叱られて、家から締め出された。昨日の夜飼っていた犬のマリーが心臓発作で亡くなった。僕は悲しくて、とても悲しくて、ご飯が食べられなかった。今晩のご飯はハンバーグで、それはお母さんが僕を可哀想に思って奮発した料理だった。僕の家は貧乏なので、肉が食卓に上がることは滅多にない。
 僕は食卓に上がったハンバーグの匂いを嗅いでマリーのことを思い出した。「どうぶつの肉」という共通点に思わずこみあげた。
 「さあ、元気だして。食べなさい」というお母さんの言う通り、ひとくち食べた。絡まったソースの味がしつこく舌に残った。あまり気が進まないままふたくち目を食べると、僕の頭の中でマリーの姿がよぎった。白い毛に黒縁の毛並み。たいして教えてもないのにお手、をすぐに覚えたマリー。僕はマリーを食べているような気がして、次の瞬間思わず吐いた。
 おかあさんはそれを見て「ちょっと!あんた何様の気だよ!」と言って僕の服の首元を引っつかんだ。ぶたれる、と目をぎゅっとつむるとお母さんは僕の頭を殴って、それから身体を引っ張って玄関まで連れ出した。口の中でまだマリーの味がした。
 お母さんは突き飛ばすように僕を外に出すと「少しは反省しなさい!お母さんあんたなんて知らないから!」と中から鍵を閉めた。
 「お母さん…」僕は胃液のあがった口の周りを袖で拭って呟いてもみるものの、外の寒さに少し震えた。11月の頃だったと思う。日はとうに暮れて月明かりが僕の皮膚を照らした。
 僕は納屋に行き、祖父のコレクションのお荷物の中から錆びた狩猟用のナイフを見つけた。それを小脇に抱え、裏庭のマリーのお墓に向かった。
 「マリー、寝てるの?ねぇ、マリー」呼びかけても反応はなかった。僕はナイフを地面に突き立て、マリーをひとめ見たいと墓を掘り起こした。
 ザッ、ザッ、と音を立て素手で土をひたすら掘った。円を書くように掘り下げると、マリーの後ろ足が見えた。僕は夢中になって掘り続けた。やがて背中が見え、前足が見え、顔が見えた。土にまみれてもなお、マリーの毛の白いところが月の明かりでぼんやり見えた。まるでまだ生きていて眠っているかのようだった。
 僕は穴の周りに身を置いて、寝そべりながらマリーの前足に触れた。もう息もしていないのに、暖かい気がした。しばらくその体勢を保っているうちに涙が出た。
 「マリー、僕も一緒だよ。置いていかないで。また遊ぼうよ」
 少年は寒さで震えながら、マリーの屍を見つめ続けた。そしてマリーに移入するごとに、どこからともなく怒りの感情が湧いてきた。少年は突き立てたナイフを手に取り胸のそばにお守りのように大事に抱えた。
 「マリーを傷つけたものを殺してやる。僕に触れる者はこのナイフで殺してやる」
 そう、そうして少年の中に「怒り」という感情が用意された導火線のように敷き詰められた。
 
 真夜中に近い頃、彼の母親はずいぶん疲れた顔でようやく佑斗を見つけた。すでに近所の住人も手助けして探し始めた時だった。
 「あんた、…もうバカね!お母さん心配したんだから、さぁうちに入りましょう、お風呂沸かしてあげるから」
 そういう母に佑斗はナイフをかざした。
 「なにやってんの!危ないじゃない、どこからそんなもの___」
 「さわるな」彼はナイフを下ろして母親に告げた。そしてスタスタと家の中に入った。
 マリーが教えてくれた。生きるものは必ず死ぬ。
そして生きる者はその事を忘れてはいけない。
 愛する者を奪われたら怒りをたずさえて取り戻さなくてはいけない。この世の中は不純でいっぱいだから、命をかけてでも守り抜かなきゃいけないことがあるのだ。

 「思い出した」俺が呟くと隣にいたシスター・レイが物憂げに聞き直した。「なーにがー?」
 「怒り、だよ」橋の欄干で2人は並んで腕を掛けて立っていた。川の匂いが、幼い頃河川敷で遊んでいた頃を思い出させた。マリーが亡くなった時に近かったから、思い出したまでの事だ。

 俺は、隣町の心療内科の待合室で予約の時間を待っていた。
 こうなった事に微塵の疑問も持たなかった。会社でのミスや遅刻、留守の間に失われていくいけちゃんの荷物、食欲不振に深酒、そして早朝覚醒。何かがおかしいとネットで調べてみたら、いわゆる鬱の入り口に立っているのではないかという事に気がついた。そして何よりも忌々しいシスター・レイの存在。彼女が俺の命を狙うならば、生きる意思を奪うならば、その前に消滅させればいい。彼女がシラフでいられるように、俺は命を放り出した。
 
 要するに俺が死ねば彼女も死ぬ。

 それとも彼女の事だから、他にターゲットを見つけるかもしれない。ともかく俺は彼女から存在を隠したかった。現れる度にウォーターリリーの香水の匂いを嗅ぐことにすら疲れていた。あいつは悪魔だ。良識を振りかざした悪魔だ。世間話で俺の様子を伺って、心の中では俺の寿命を計っている。

 日差しがブラインド越しにグレーに染まる。看護師に名前を呼ばれた俺は、診察室へと向かった。

 初老の男性は眼鏡をかけ直し、診察前に療法士が行った質問の一覧に目を通す。そして睡眠時間や食事を摂っているか、仕事には行けているか、という確認を行った。仕事はギリギリ行けているがミスばかりやらかすと伝える。それ以外は全部バツ印だ。
 俺はふと、シスター・レイの存在を思い出し、一通り話した。そこで医者は首を傾げた。
 「その女性は現実に存在しているのですか、それとも夢の中だけ?」俺は縦に首を振った。
 医者はしばらく考えて、それからフッと肩の力を抜いた。「なるほど。もしそれが現実だと言い張るならば統合失調症とも考えられますが、それとも様子が違うようだ」今度は俺が首を傾げた。
 「今のあなたは抑うつ状態ですね。このまま放置すれば鬱になっていたでしょう。薬を出します。この薬は多くの患者に使われているので…」と、薬の説明を始めた。
 「お大事に」その〆言葉と共に提供されたのはSSRIの抗鬱剤と睡眠薬だった。
それを受け取りながら俺は自分に対して疑問を感じた。俺は自分を消滅させたいと願いながら、薬に頼って生き長らえようとしているのではないか?
 薬の束が入った紙袋をリュックにしまいながら、手が震えた。

 どちらにせよ、シスター・レイはやってくる。
 彼女がやってくる。日毎、日毎に。

 俺はやはり統合失調症なのかもしれない。シスター・レイは自分にとっては確かな存在だ。現実と同じ領域で夢は毎晩訪れる。とんだ袋小路に嵌められたものだと、俺は小さく嗤った。

 結局俺は、処方された薬が効く前に3日間で飲むのを辞めた。朝目が覚めるのをガマンするのは辛かったので、睡眠薬だけは服用した。
 すると朝までぐっすりと眠ることがかできた。健康は睡眠からという言葉もあながち嘘ではないのかもしれない。だが、病気は少しづつ俺を蝕んだ。
 いけちゃんは最後の荷物を運び出したらしい。合鍵が新聞受けの中に放り込まれていた。彼が手入れしていた台所は見る間もなく散らかった。会社には処方箋に「軽度の鬱」という診断書を提出し、1ヶ月間の休養をもらった。その時上司から「そんなに休んだら、もしかしたら返って来る頃には机ないかもね~」と軽口を叩かれて、俺は奥歯をギュッと噛み締めた。「ご迷惑かけてすみません」と言うのがやっとだった。
 何かもがしんどく、俺を取り巻いた空気はどんどんよどよでいく。いけちゃんが去り、俺は一時的に会社も去った。
 そしてシスター・レイはこの頃から姿を現さなくなった。俺が自虐的になればなる程、夢を見なくなった。夢の背景はモノクロームで、彼女の瞼の色も口紅も、あの爪先もどんな色だったかも忘れた。彼女もまた俺の元を去った。

 鬱々とした感情で自分を押し殺して生きるか。
 それとも嬉嬉として生きてシスター・レイに年ごと命を奪われるか。

 今ひとつ言えるとしたら、自分には選ぶ権利も無いという事だ。

 休暇を貰って、俺は殆ど家にこもった。夜の街は俺にとっては眩しすぎた。赤や水色、ピンクのネオン管、行き交う酔っ払い、悪臭を放つ道路はハレーションを起こしそうだった。街に行けばそれは現実にシスター・レイに出会ってしまいそうな気がして怖かった。街中の騒音が、俺を押し潰した。
 初診から2週間後に予約を入れた病院から電話が入ったが、無視をした。睡眠薬もあとわずかばかりしかない。
 俺は緩慢な死を選ぼうとしていた。実際気がつけば自殺の方法をネットで調べていた。すぐには実行するのはためらわれたが、方法があると分かると、それだけでも何故か気持ちが楽になった。

 ある夜の深夜、けたたましくスマホが鳴った。
 俺は条件反射でそれを手にした。知らない番号は取らない主義だが、思わず反応して出た。
 「こっち、マジで退屈なんだけど」俺はとまどった。シスター・レイが電話をかけてきたのだ。絶対絶命の女王陛下は退屈のあまり痺れを切らして俺に電話をかけたのだ。俺はひゅう、と息をした。
 「何を今更?」俺は憎まれ口を叩いた。
 「お前にとって俺が生きようが生きまいが関係ないだろ」
 「そういう話じゃないの。あなたに異変が起きている」
 「確かにな。俺はどうやら生きたくないらしい。君をハイにさせる気はさらさらないよ」
 「いつものアメリカンダイナーに来て。あなたに本当のことを教えてあげる」
 本当のこと、に思わず引っかかった俺は、思わず彼女の言うことを承諾した。
 「こっちはくたばりそうなんだ、手短に頼むよ」
 「お願いだから生きていて」
 「どうたが」と返事する前に電話が切れた。
 部屋の無音が響き、時計の針はゆっくりと動いていく。時間はこれほどまで自分を押し潰していくのか、シスター・レイに会うまで無限に続いて行くような気がした。

 俺は自ら命を絶つ予感に立ち尽くしている。
 そんな時シスター・レイは再び現れた。オレンジ色のソファーの向かいにどっかり、と座り込んだ彼女は信じられない程___荒みきっていた。
 スパンコールのついた水色のワンピースは所々がほつれて、髪もしっかりカールされておらず櫛も入れてない様子だった。アイシャドウはオレンジで、ダークプラムの口紅が禿げかけている。
 「わかる?」シスター・レイは引きつった笑みを浮かべた。
 「もう、前みたいにハイになれないの」
 彼女はそう言って袖口を肘までめくると、注射針の何本と打たれた跡を見せびらかした。
 __つまりは、そういう事だ。
 オマケに首元の黒いチョーカーのリボンには金色の刺繍で"I Can't Live With WithOut You"と縫い込まれており、そのチョーカーの下は包帯でグルグル巻きにされていた。
 __つまりは、そういう事だ。
 俺たちはどうやら同じ地点にまで堕ちたらしい。
 理由はあえて聞かなかった。その代わり、彼女の為に果汁100%のオレンジジュースを頼んだ。

 「少なくともあなたの命は差し引いてあと5年ね」シスター・レイは口を開くなり弱々しくそう宣告した。
 「信じられないね。そこまで残っているとは」俺はいつもの癖で自嘲した。
 「生きたくないの?」
 「君もだろ」
 彼女はため息をついた。
 「まあ、そんなところね」
 「どうして、そうなった?」俺は何も頼まず水を飲む。コーヒーは胃を痛めるから飲めなくなった。
 「あなたから命を奪おうとすると」彼女はひとくちオレンジジュースを飲んだ。
 「少年が現れて私を憎悪むき出しの目でみつめてくる。彼は私の事を心底憎んでくる。その目が怖いの。彼は私の今までの過ちを全部知っている」
 「男の子相手に何故そこまで怯える事がある?」
 「その少年は、かつてのあなたよ」
 「えっ?」
 俺は生まれて初めて「怒り」の感情を覚えた時のことを思い出した。マリーという飼い犬の死。その時俺は確かにそう感じた。
 「愛する者を奪われたら怒りをたずさえて取り戻さなくてはいけない。この世の中は不純でいっぱいだから、命をかけてでも守り抜かなきゃいけないことがあるのだ」と。
 俺は一瞬動揺した。俺が今かろうじて生きているのは昔の俺が感情をほとぼらせているからなのか。そして、そのエネルギーが自分の中にまだ残っているということなのか。
 シスター・レイは泣き出した。「彼は私をメチャクチャにする。今回はあなたの命を奪い取ることはこれ以上できない」彼女のアイラインが滲んで頬を伝った。
 「私には時間がある。金もある。何故なら身体を売っているから」彼女がしゃくり上げる。絶対絶命の女王陛下の羽の扇子は羽が抜け落ちてみずほらしいただの扇子と化していた。
 「怖いの、あなたが。私に今までの罰を与えようとしているの。あなたの中の少年は真実を知っている。私があなたの命を奪うのではなく「意思」を奪っているという事を知っている。あなたの幼い命は雷のように神聖で残酷。それに触れたら私は感電してしまう。だから」
 彼女は首元を斜めに切る動作をする。
 「失敗しちゃった…」
 彼女は再び泣いた。最初に出会った頃の自信満々な態度が嘘みたいになりをひそめていた。
 俺は再び水を飲み言った。
 「じゃあ、一緒に死のうか」
 彼女は手の甲で顔を拭いながら首を横に振る。
 「分かってる?これはたかがあなたの夢の中の話しよ?私とあなたは近い距離にいるけど、交わることは決してない」
 「俺にも何も残っていない。これ以上失うものはない。どうして今日君は現れた?」
 泣き止んだ様子のシスター・レイは息を整えてこう吐き出した。
 「あなたに生きて欲しいから」
 彼女はそう言うと、前みたいにクラッチバッグから千円札を取りだした。そしてテーブルに置く。
 「俺たちはもう会えないのか?」消えて欲しいと憎たらしくさえ思っていたシスター・レイが、急に愛おしくなった。
 「死の女神は、役目を終えたら行く場所があるの」
 彼女はそう言うと無理して微笑んだ。
 「君のその笑顔を見ていたい」
 「死ぬに死ねないシスター・レイはもう笑わない」そう言って真顔に戻った。まだ震える胸の内を理性で隠した。
 「じゃあね、佑斗さん。おやすみなさい」彼女は立ち上がると店から出ていった。

 残された俺は大きく進路を変えた命の行き先に、一瞬迷子になった。遠ざかるヒールの音。気がつけば自分でも僅かばかりに涙が流れた。

 シスター・レイと別れてから佑斗は心療内科に再び電話して予約を入れ、通いだした。律儀に薬を飲み始めた。最初は変化を感じなかったが、そのうち自分の底を見つめるような事はなくなった。失ったものへの感情が、煤を払うように明るくなったのを感じた。
 ある日いけちゃんから手紙が届いた。その手紙には謝罪の言葉と感謝の言葉が綴られていて、一枚の写真が同封されていた。それはいけちゃんの愛するわが子の写真だった。以前なら嫉妬の感情で破り捨ててしまったであろうその写真の中の少年は、いけちゃんの顎のラインと目元がそっくりで、思わず安堵した。この子が生きているのなら、いけちゃんはきっとハッピーだ。佑斗はその写真を壁に留めた。

 朝起きることは「セロトニン」という神経物質を増やすのにいいと何かで読んだ。それは心の安定をもたらし、イライラ感や不安要素を取り除いてくれるのだという。佑斗は毎朝散歩した。大きな公園を1周すれば充分に効果をもたらした。
 佑斗は公園の中にある薔薇園に足を運んでみた。普段花なんかに興味のない彼が珍しくそうしようと思った事自体が、回復を意味した。
 まずは、小さな白い薔薇がアーチ状になった門を取り巻いている入口を通る。
そこから先は見渡す限り様々な薔薇で埋め尽くされていた。彼は大振りな薔薇に指を触れると、朝露を含んだ花びらで佑斗の指が冷たく濡れた。
 「おかえりなさい佑斗さん」声にならない声で私は呼びかける。彼はずっと私を見つめる。
 彼の中のささくれだった少年時代の佑斗を薔薇の匂いでそっと抱きしめる。
 「この世の中は不純でいっぱいだから、命をかけてでも守り抜かなきゃいけないことがある」
 あなたの言うとおりね。私は人生から降りたけど、あなたには沢山、守らなければならないことがあるの。そこで彼は一瞬呟く。
 「シスター・レイ、君はここで眠っているんだな」
 ご名答。夢の世界にすら居られなくなった絶対絶命の女王陛下、シスター・レイはここにいる。ここは安らかにわたしを守ってくれる。
 佑斗は思わず辺りを見渡す。赤やピンク、黄色や黒のバラは一斉に佑斗に注目する。
 すると、薔薇の彩りが佑斗の爪先からつま先まで彼の中に入り込んだ。エネルギーが動き出して、彼の身体に注がれていく。
 モノクロームの彼の中の色がほんのりと色づき出す。風が、匂いを乗せて彼の鼻腔をくすぐる。
 彼は言った「そういう事か…」と。
色彩が彼に「生きて」と伝える。
 佑斗は目の前の景色がだんだん色を取り戻していくのを感じた。その表情は安堵と安らぎに満ちていた。ダイナーで最後に会った時の佑斗の冷たい目付きが柔らかに細まる。
 「私があなたの生きる意思を奪い取ろうとしたけれどあなたの中の少年が私に教えてくれた。今を生きろと。今の私は浮き立った屍だけれど、そのうちまた生き直す。絶対に命を無駄にしてはいけない。それは今のあなたが教えてくれた事。そのうち、何の取引もせずにあなたとまた会いましょう」
 わたしが佑斗に語りかけると、少しは通じたのか薔薇の花を見つめて「ありがとう」と言って頭を掻いた。
 彼は薔薇園を後にする。その足取りは確かで、地面に残る彼の影は色とりどりに揺らいでいた。
 私は一息つく。人の人生を奪って来た私が、ようやく人に人生を与えることが出来た、と。私は深く目を閉じた。


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