「神様っているの?どう感じるの?という考察をおやつでも食べながら聞いてください。」
しばらく病気で入院して1月初めに予定より早く退院することになった。病院から下界に下るという事がこんなにもしんどいとは思わなかった。ベッドの固さの癖から生活リズム、食事に至るまで何もかもが変わった。入院中、1日4時間だけ与えられたスマホを見たり日記を書いたり(4時間って今にして思えば充分だが、退院後あまりにも依存してしまったのでその半分に時間制限をもうけた)考える事ならたくさんあった。
しかし今はもう自由の身である。退院後、私は「人の為に使われたい、役に立ちたい」と思うようになり少しずつ思考の留め具を外して解体するようにあらゆることをそこから派生するように考えた。
なぜそんな事を思うようになったのかは謎だが、おそらく入院して自分が弱者の類に入ったことを骨身に染みて感じたからかもしれない。入院という体験はあまりポジティブとは言えないからこそ自由を欲したのだ。私はよくノートにやりたい事を書き綴った。それは全て自分のエゴから始まっていたが、薄々気付いた。本当に自分がやりたいことはなんだ?そんなしょうもない願いが何になる?
前置きが長くなった。友達と会う約束をした前夜、楽しみでふと思いついた事があった。本当に風呂から上がってリラックスした後にふと湧いてきた考えである。
神様は存在している。
はい、ここで怪しい話題で嫌だなと思った方は回れ右をしてください(笑)自分もこういう話題には敏感になってしまうのだが。
皆さん走馬灯をご存知だろうか。回り灯篭とも呼ばれるそれで、決して死ぬ直前に回るアレ、ではないのであしからず。綺麗だよね。私も葬式の時にしか見たことないけど。
人間というものは「逆走馬灯」で成り立っているのである。「?」という話だが、普通走馬灯は中の中心に光があり、その周りを様々な形にくり抜かれてセロファンで色付けしたフィルターが回り、和紙でできた灯籠の外枠に囲まれている。
その逆というのは、まず真ん中に自分が存在している。一番外側にあるのが光、つまりは「直接掴めるわけではないが確かに存在を感じ取れる」というポジションの「神様」ある。だが真ん中にいる人間は光そのものは理解し難い。だからこそ、その光と人間の間にあるのが回転するフィルターがある。
そのフィルターは自分の好きな形にくり抜かれている。例えば好きな彼女、彼氏だったり家族。推しのアイドルかもしれないし、鉄オタには電車の形、追求するシェフにはフルコース。尊敬する先輩、飼い猫、犬。数は自由。真ん中にいる自分はそこで灯籠の回転を景色として見つめて「ああ、綺麗だな、かっこいいな、ずっとこのまま眺めていたい」と外側の光をフィルターを通して感じるのである。よく、技を極めた人の技術を見て「神がかってる!」と私達は感じるが、それは神という明かりを実感した、極めた人を見て美しさを見出すからだ。
ちなみにそのフィルターには「無料」と「有料」があります(笑)有料は質もバラバラだがよく出来た美しさを伴います。それがお布施をおさめる「宗教」なのです。私はちなみに無料です。自力でフィルターを修復して明かりを見る為により良くしていこう…と目指すのが「生きる希望」であり、そしてそうやって試行錯誤している間にも絶え間なくずっと存在しているのが、外側の光。光は何も口出しはしない。成功しようが失敗しようが、絶え間なく自分を見守っている。豪華な仏壇に手を合わせることも、「いただきます」と言ってご飯をいただくのもちゃんと外側の光は知っている。光は言い換えれば無償の愛。
さらにあるんですけどね、真ん中の自分は普段止まっているけれどたまに回転するフィルターと同じ速度で回る時があるんです。それは文字通り運動だったり、手芸とか私だったら鉛筆画を描くときとか。つまりは没頭。フィルターと同じ速度で回れば文字通り「時が止まる」を体験するのである。その時に自分に近いフィルターという絵柄がどこまで綿密で詳しく描かれているか知るわけで、光の距離が近くなる。いわゆる「ゾーン」に入る体験なわけです。
…という訳でこれを一晩で思いついたのがウケるんだけど(笑)友達に言ったら「何かに残したほうがいい!」との強い推しで書かせていただきました。
もしも人生のご参考になる事があれば幸いです。…宗教やってないから!(笑)逃げないで。
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