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アリとキリギリスと「いつも綺麗に使っていただいてありがとうございます」関係

私には、ある日を境に嫌いな人がいなくなった。
おかげでとっても気持ちが楽になった。
今回は、その話をしようと思う。

「この人私のこと嫌いだろうなぁ。」という直感は、だいたい当たっている。
もっというと「この人とは、合わないだろうな。」もだいたい当たっている。
今日の夕食多分カレーだな。と玄関で思うぐらい当たっている。
なぜなら「直感とは、細胞からのお知らせ。」だと私は思っているから。
今まで経験してきた全ての悪い出来事になった経験や、いい結果をもたらした結果を細胞は覚えている。その結果に導いた経験を総動員して、危険や幸福を伝えてきているんだと思っているのだ。なので多分いろんな経験をした分だけ、その命中率は上がってくるはずだと思っている。
なのでこの細胞の信号は、信じた方がいい……のだけれど社会は、自分の好きな人だけと過ごすことができるほど甘くはないのだ。
江戸時代から見える白も殿様が黒といえば黒なのだ。甘くない。

「嫌いな人」と言うと、ちょっと言葉が強くて躊躇している人も「苦手な人」と言われると『いるいる〜』となるのではないだろか。
ちなみに私は、今嫌いな人も苦手な人もいなくなった。
私は、その快適さを手に入れるためにやった事は気持ちの方向を変えただけである。

私は、基本的に「自分の周りにあることは、全て自分に責任がある」と思っている。これは、考え方の癖なんだけれど。
きっと理不尽なことが多ければ多かった人ほどこの考え方で自分を守ってる人が多いと思う。江戸時代の白黒問題から始まり、裸の王様の行列に並んだ部下や、キリギリスに結局食べ物をあげた蟻等、世の中は理不尽に溢れている。夏場遊び続けたキリギリスに、なんで自分が夏働いて貯めた食料あげないけんの……  ?
例えば、私は長女である。長女長男は、だいたい小さい頃から理不尽なことが多い。いわゆるお姉ちゃんだから、お兄ちゃんだから問題だ。ただ少しだけ先に生まれてきただけで、我慢しなければ、配慮しなければ、守らなければいけないことが増えてくる。この不条理な問題について、自分を納得させるために考えるのが「私もお姉ちゃんなのに力を入れすぎたのが悪かった。」等と自分の悪いところを探して納得するようになる。そうやって理不尽なことに合うとそのたびに「自分の悪い所」を探して自分を納得させようとする。
そうしていくとその考え方が癖になる。そうやって自分をも守っていく。キリギリスムカつくけど蟻は結局食料を渡すのだ。

この考え方が問題で、「この人が私のことを嫌いなのは私に問題があるからだ。」と思っていた。そして小学校の課題図書に書かれていたように「嫌いな人と話してみたら案外いい人だったりするよ」なんていう世の中の常識みたいなのに操られ、わざと話しかけたり挨拶したりしていた。人類皆兄弟、性善説全肯定である。でもこれって、
「いつもトイレをきれいに使っていただいてありがとうございます。」
と言うのと変わらない。もちろん性善説からいうと、「綺麗に使ってもらってることにお礼を言いたい。」となるのだろう。感謝に怒りで返すなんて考えられないのだろう。でも私が世の中で唯一苦手な種類のありがとうがこれだ。
「あなたはいい人」と言うことでいい人にならざるを得ない恩義せがましいありがとう。人をコントロールしようとする感謝。怒ってはないけれど苦手。
それと一緒だ。
私から挨拶をしてその人の中の「罪悪感や心の狭い自分と思われたくない」と言う気持ちをコントロールして挨拶させる。でもそんなことで人の本質は、変わらないし相手のイライラは、増える一方である。
そして私は私が嫌われる理由を意味なく自分で重ねていく。

ある日友達と話をしてる時に気づいた。彼女は、自分の子供が椅子の上に立ったのを怒った。
『そんなことしちゃだめでしょ。この前もどうしてダメか伝えたよね』
そして私にため息混じりにいった。
『もう、何度言ってもわからないのよ。行儀悪いでしょ』
子供だから仕方ないよと言いながら、確かにそのあと誰かが座ると思うと子供の気持ちばかり優先できないなとも思った。
その後、私たちの隣の席に同じぐらいの子がいる親子が座った。見ているとその子が椅子の上に立ったのだ。その子の親は、注意する様子がない。
私は友達に聞いた。「あの子椅子の上にたってるね」すると彼女は『そうだね』と普通に答えた。
「気にならないの?」
『だって他人だし、私には関係ないからどうにも思わない。』
そしてとても単純なことに気づいた。距離感だ。他人との距離感。どうでもいいと思える距離感は無敵だ。

「なぜに嫌いな人に自分から近づかなければならないのか。」
と言うことと
「私の周りで起こることは、全て私に原因がある。」
と言う気持ちが子供の椅子の上に立つ行為のおかげで上手にマリアージュしたのだ。多分さんまは、猿のことなんてどうでもいいし、私は、隣の部屋の人が夜中大音量で音楽を聴くのは気になるけれど、地球の裏側の人が寝てることなんて気にせず走っている。さんまと猿は、話すらできないな。つまりは、
「嫌いな人には、どうでもいいと思うぐらい距離を置けばいい。」

私はその頃、会社の人間関係で悩んでいた。ある先輩が私に敵意剥き出しなのだ。後から入ってきた私が仕事をするのがどうしても気に食わない様子だった。
嫌いなら近づいてみよう!と言う謎の呪いを実行していた。「いつも綺麗に使っていただきありがとうございます。」作戦だ。感謝の押し売り。
でも私は、このことを期に彼女と距離を置くことにした。会社では、話もしないし挨拶もしない。でもそう簡単にうまくはいかない。その距離感がまだ辛くなった。相手が気になるのだ。挨拶をしない自分も気になる。隣の夜中の音楽は、小さくなっても、一度気になるとずっと気になるのだ。後遺症だ。
「だめだ距離感がまだ近すぎる。」視野にないってもどうでもいいと思えるぐらいの距離感が必要なんだ。そうしてまた距離感を広げた。
そして、どうでも良くなってきた。すると面白いように、彼女はわざと近づいて文句を言ってきた。彼女にとっては、文句を言う相手の私が必要だったんだなと思った。どうでもいい。気づけば、「嫌われてどうしよう→なんか言ってるな」ぐらいにまでなってきた。どうでもいいのだ。どうでもいいと言うのは、極めると普通に挨拶もできるし話もできる。どうでもいいの境地は、本当に「我関せず」なのだ。

ちょっと露骨な感じがするけれどそのことに気づいた時に
会話形式で書いた文章がこちら。。

まだこんな露骨にかけるほど前の傷がいえてな頃に書いた文章だ。

とかく人を嫌いな理由は、自分にある。自分が近づきすぎているのだ。今海外のどこかで道に迷っている人がいても気にならないように距離を取ればいい。キリギリスの冬の食糧が足りなくなってしまうのは、蟻のせいじゃない。
優しさを持ってしまうと気になって仕方がなくなるだろう。まるで食糧を与えない蟻は優しくないと責める人がいるように。でもその食料は、夏の間蟻が遊ぶ時間を我慢して蓄えたもので、その時間はキリギリスが遊んで暮らした時間なのだ。
自分の細胞が教えてくれた相手はきっとあなたを傷つける。傷つけないにしても嫌な気分にぐらいはなる。すでにあなたの優しさに漬け込んでいる相手はきっと周りにいる。そんな人とは、距離を置くのだ。心の中の距離を地球の反対側ぐらいに置く。その人が苦しもうと気にならない、楽しかろうと羨みもしないぐらいの距離感。すると嫌いな人は、世の中にいなくなる。好きな人とそれ以外の人になる。びっくりするほど生きやすくなるし、大切な人が明確になる。限りある時間をその大切な人のために使えるようになる。もういいことづくしだ。

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