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ただ一人で外を見たかっただけなのに……

『今日お腹痛い気がする』

私の学校を休む理由は、お腹痛い・熱がある・寒気がするぐらいしかない。学校でいじめにあってるわけじゃない。友達もいるしいわゆるグループにも属している。休み時間に話をする相手がいないわけじゃない。勉強は、好きだし、あっ体育は苦手だ。私が、学校を休む理由、それは学校があまり好きじゃないからだ。

ある日、母が学校に電話をしてるのを聞いた。
『うちの子は、学校に行きたがらないんです。いぢめにあってるのかもしくは、友達ができなくて悩んでるんではないでしょうか?』
その時自分自身が、いわゆる世の中で言う登校拒否をしているんだということをはじめて自覚した。ただ、学校が好きじゃないだけなのに。ただ行きたくないだけなのに。それは、世の中で言ういじめにあったりして学校に行くことが出来ない登校拒否と一緒なんだと知った。

『いじめられて学校に行きたいくない。』そう言う理由がある人は、もちろん苦しいだろうし辛いと思う。でも私の場合は、そうではなかった。いじめがあるわけでも明確に何が嫌なわけでもなかった。誰かがどうにかしたら行きたくなると言う様な問題でもなかった。ただただ、あの空間が好きじゃなかっただけだ。
居場所があるようで、ない。その居場所が本当の私の居場所じゃない気がして辛かったのだ。

休み時間になったら誰かと話したいわけじゃないのに、話をしなくちゃならない。話をしないと、『一人ぼっちの寂しい子』とレッテルを貼られるようで何よりそれが嫌だった。仲間外れにあってるわけじゃない。ただ本の続きを読んだり、外を見てぼーっとしたりしたいだけなのにそれが許されない空間。
学校という空間では、先生という絶対的な存在が『みんなで仲良く遊びましょう』『友達をたくさん作りましょう』という正義を振りかざす。たくさん友達がいる事が正義。友達と仲良くたくさんお話をすることが正義。一人ぼっちの子がいるとその子に声をかけて一緒に遊ぶのは、正義のヒーローがすること。一人ぼっちの子がいないようにクラス全員仲良くしよう。そう教えられる。それが、この社会の正義なのだ。そして一人でいる人に声を掛けてみんなで仲良くなると言う様な道徳の本を読み、それが優しい人がする事だと教わる。困った人がいたら助けよう!と勝手に困った人を決めつける授業を受ける。一人ぼっちは、可哀想な人・困ってる人という事を少しづつ少しづつ埋め込まれる。一人ぼっちを作ってしまうことは、ダメなこと。一人ぼっちを作ってしまうことは、クラス全員に責任がある。


そうした中で私から進んで一人ぼっちを選んでしまうとそれは、『仲間外れにあってる人で居場所がない人がする行為だ。』ということで必ず正義のヒーローから声をかけられてしまう。それでも拒否をすると、私たちのクラスでそんな人ができるなんて最悪だ。私たちは悪くないのに……となってしまう。
先生から褒められるべき正義の塊のような私たちのクラスになるはずが、『私のせいで褒めてもらえなくなる。』となってしまうのだ。

今の学校は、どうなんだろう。多様性が認められ『個』を大切にしてもらえる中で私のような子供はどう過ごしているのだろうか。子供時代の『一人でいたい』と『一人になってしまった』は、とても見極めが難しいかもしれない。私は実際、そうやって交流を強制的にさせられた事で育てていったコミュニケーション能力があるが、もしこうやって強制的に仲良く話すという事をしてなかったらいまだに人とどう接していいかわからなかったかもしれないとも思う。ちょっと無理をすることが、苦手を克服し成長にも繋がる事もある。でもそればかりになってしまうととても疲れてしまうのだ。成長を促すからと言う理由が一人でいる時間全てを奪う様な事になってはいけない…

ただ私は、あの頃一人で本を読みたかったし、外の雲の流れをじっとみていたかったし、誰もいない校庭から水蒸気が上がるのをみたいと思う時間もほしかった。
ただそれだけだった。

#8月31日の夜に #学校 #登校拒否  

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