きっと時間の流れが違うだけだよ。
《外が暗いなぁ・・よる??あさ??あめのひ?まぁいっかぁ・・・》
金木犀の香りが部屋中に広がる。これから少しづつ寒くなっていくんだなと思う。今が朝だ夜だ雨だと長くいろいろ考えるのは、ちょっと疲れる。
近頃、まぁいっかと思うことが多くなってきた。40代になった頃、今まで許せなかったことが許せるようになってきた。諦めというのとは、また少し違う感情がまぁいっか。譲れないものが少なくなっていっていた。これが大人になるという事なのだろうと、その時思った。部下が要領悪く仕事しているのを見るといてもたってもいられず注意していた私が、まぁいっかと部下を見守るようになっていた。結果が一緒であれば、少しぐらい時間がかかっても構わない。それも経験だ。そう思うようになったのだ。その時、これが世で言う包容力というもので、大人になるってこういう事だと自分自身に言い聞かせた。その時私の中で譲れないものは、深く狭くなっていったのがわかった。絶対譲れないもの。
『大切な人の前では嘘偽りのない私でいること。』
それだけ守られれば、ほかはまぁいっかと思うことができるようになっていた。
でも最近は、このまぁいっかと思うことが増えてきた。若かりし頃譲れなかった『偽りのない私を大切な人に理解して貰うこと』すらまぁいっかと思うことが多くなってきた。これが大人を超えた老化というものなのだろうか。
時間の流れもだんだん曖昧になってきた。この前は、朝起きたかと思うといろいろ考えていたらもう昼だった。どうにも集中力を発揮していろいろ考えをめぐらせすぎているのかもしれない。人生経験が多ければ多いほど考えることは増えてしまう。とはいえ、家族の時間の流れは、私と違う方向に早いようだ。生き急いでいるという言葉がぴったりだ。そんなに急いでいると、大切なものを見過ごしてしまうぞとすら思う。大切なものは、案外近くにあるものだ。なのに彼らは、いつも早口で何か喋っている。私がいろいろ考えを巡らせてる間に次の話題、次の話題へと話がくるくる変わっていく。速さについて行けず色々考えていると私が聴こえていないと思うのか、ゆっくり大きな声で話しかけてきたりする。聞こえないわけじゃなくて、早いだけなのにと思うけれどまぁいっかと思ってそのままにしている。するとそのうちそれもどうでも良くなる。すぐにどうでも良くなる。
『おばあちゃん、今日は、ひ孫が、来て、くれましたよぉ。』
ひ孫って誰だっけ?・・・開いた扉の前に赤ちゃんを抱いた女の人が立っていた。この人・・・・誰だっけ・・・・
『おばあちゃん 私よ。わかる?』
ひ孫って誰だっけ?それにしてもお母さんに抱かれている赤ちゃんが可愛い。小さくてすやすやねむっている。この赤ちゃんを抱いた女の人誰だっけ??あっそうだひ孫って誰だっけ?
『私よ・・・・わぁかぁるぅ????』
きっと聞こえないと思ってるんだろうな。聞こえてるのに。ちょっと時間の流れが早いんだよ・・・矢継ぎ早にいろいろ聞いてくる。それにしても赤ちゃんのほっぺたがぷっくりして触ってみたくなる。
赤ちゃんのお母さんがこちらをじっと見ている。とりあえずわかる?って答えを待たれているようだ。
『わかりません・・・・・』
あ〜誰だっけ???知ってるな・・・この人知ってる。誰だっけかな。絶対知ってる。思い出せないな。
『そっかわからんか。。。今日はお天気だね』
お天気?本当だ・・・空が明るい。さっきまで曇りだったような気がしたけれどそれは、ずっと前の事だったような気もする・・・
あっそうそう・・・この人知ってる。誰だっけ?
ずっと何か喋ってるけど・・・誰だっけ??多分知ってるんだよね。
『もう朝ごはん食べたの?』
ご飯?????食べたな。さっき。そう思って首を縦に振る。
何だか目の前にいる誰か・・・多分知ってるこの子が笑ってる。
ずっと喋ってるけど誰だっけ??思い出せないなぁ・・・
いつもは、まぁいっかってすぐに思っちゃうんだけど、この子のことは、多分知ってる。というか、どうしても思い出したい。そうやって笑顔で話す姿、わかりませんっていった時ちょっと涙が目に浮かんだ姿。懐かしい感じかするんだ。誰だっけ・・・・寂しいそうな目で私を見ている。どうにかしないとと思わせるこの子は、一体誰だっけ?
そう考えている間も目の前にいるこの子は、私に優しく話しかける。あ〜誰だっけ??この懐かしい愛おしい感じ。悲しそうに私を見ているこの子を私は、絶対知ってるはずだ。この感じ。この話し方。この涙。この声。誰だっけかな。あと少しで思い出せるんだけどな。あと少し。すぐわかる。もう少し。きっと分かる。
______________________________
『おばあちゃん、私よわかる?』
おばあちゃんは、絶対に私の事だけは分かる確信があった。
声が聞こえないんだろうか?少し大きい声でゆっくり喋る。
『私よ・・・・わぁかぁるぅ????』
『わかりません・・・・・』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あんなに仲が良かったおばあちゃんが私のことをわからないなんて絶対ないと思ってた。『ちょっと痴呆が・・・』と聞いた時、私の事だけは絶対分かると確信があった。
私は、自営業の両親の元に生まれた。両親は忙しく私は、祖父母の家によく預けられた。祖父母は、とても優しかった。ずっと一緒にいてくれた。花の名前も、野草の取り方も、季節の行事も、お風呂の入り方も、字の書き方も、全部祖父母から教わった。私は少しおっとりした性格で、自営業の両親とは正反対だった。父も母も躾に厳しい人で上手に箸を持てないと食事をさせてもらえなかった。そんな両親への愚痴も、祖父母は最後まで聞いてくれた。良いことも悪いことも、全て最後まできちんと聞いてくれた。
お正月に祖父母の家に従兄弟達がやってきた。その時私だけに『お皿を並べて、お箸を用意して』と祖父母は言った。その時、私は他の孫とは違うという優越感を味わった。おばあちゃんにとって、私は他の孫とは違う特別な子なんだと思うとなんだか嬉しかった。
私にとって両親より近い存在、それが祖父母だった。両親に言えない辛いことや悲しい事、苦しい事も祖母には、話すことができた。楽しい事は、両親にも話すことができるのに、苦しいことは、祖母にしか話せなかった。私が社会人になってからも苦しいことがあると祖母に手紙を書いた。両親には言えない苦しいことを手紙に書いて祖父母に送り続けた。私は祖父母にとって特別だという確信を持って生きてきた。だから私には、確信があった。きっと私のことだけは分かるはずだと。
『わかりません・・・』
根拠のない自信は、会って数分で打ち砕かれた。
祖母と私は、深く繋がってると勝手に思いこんでいた。
行き場のない寂しい気持ち。ひとりぼっちになってしまった気持ち。私にとって世界で一番大切だと思ってた人が私を思い出せないという気持ちと現実の距離が遠すぎてどうして良いのだかわからない。いろんな気持ちが交差する中で私は、祖母にずっと語りかけることしかできなかった。
『今日は、良いお天気だね。』
『最近暑いけど、体の調子はどう?素敵な服だね。』
『もう朝ごはん食べたの?』
そういうと祖母は 、首を縦に振った。
『そっか、ご飯おいしかった?お昼が待ち遠しいね。』
『私は……最近仕事うまくいってるよ……』
『……おばあちゃん、金木犀の香りがするね。』
手をさすりながらたくさん話しかけては見たけれど、祖母の目はうつろでまるで真っ暗な中を彷徨っているようだった。話しかけていると母が写真を撮ってくれるというので撮ってもらった。その間もずっと祖母は、何か暗闇で探しているようなそんな目をしていた。
世界的伝染病が蔓延している中、生まれたての子供を抱えた私にの行動範囲と時間には、かなり制約がある。
『おばあちゃん。何だか突然色々話されると、頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃうよね。わかんなくなっちゃうよね。ごめんね。今日は、もう帰るね。またくるね。』
そう話をした時、祖母が私のさすっていた手をぎゅっと掴んだ。目がしっかりこちらを向いてる。
私は、母に促されるようにその場を去った。建物を出た時ハッとした。そして隣にいる母を向いていった。
『多分おばあちゃん最後にわかったと思うよ。私だって』
母は、そうだねと悲しそうに笑った。私と祖母にしかわからない距離感。私と祖母にだけ通じ合ったほんの数秒。祖母の目。
祖母と私は、きっと時間の流れが違うだけなんだ。ただそれだけなんだ。
今年も金木犀が咲いたようだ。目には見えなくても、香りが咲いたことを知らせてくれる。この香りが漂うと切ない気もちが溢れ出してくる。もうすぐ夏が終わるからもあるだろう。部屋に香ってきた香りをゆっくり吸い込んで目を閉じる。
目には見えなくても、私の中におばあちゃんはずっといる。
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