「世界の始まりは貴方がいい」
朝の登校中、私は眠くて眠くて仕方がなかった。
顔を前に向ける気力もないくらい眠くて、私はずっと足元を見つめながら、ふらふら歩いていた。
昨夜もきちんと、7時間睡眠をしたはずなのに、何故なのか。
禁止されていた猫の集会に参加しようと、計画を練っていたから、バチがあたったのかもしれない。
今夜は窓辺に、鰹節を置いておくしかない。
倒れそうになりながら、なんとか学校に辿り着き、自分の教室へ向かう。
「おはよー!昨日の抜き打ち持ち物チェックで、ペリドットを持ってる生徒がいたらしいよ!
その生徒、今度行うシリウスの人たちとの交流会に、強制参加だってさ!」
途中、クラスメートが横を通り過ぎて、挨拶をされた気もするが、半目でコクコクと頷くことしかできなかった。
もうすぐHRが始まるというギリギリの時間に、倒れ込むように席に座る。
隣の席の男の子に、おはようと言われた。
睡魔に襲われた頭では、「うん」と応えるだけで、精一杯だ。
「あのさ、昨夜、3年ぶりに星海月の欠片が降ってきたでしょ?だから、僕、あの欠片を集めて、砂糖漬けにしてきたんだ。よかったら、お昼に一緒に食べようよ」
他にも何か言われたが、どこか遠くに聞こえて、何も答えられない。
あまりにもぼんやりしている私を心配してか、隣の席の男の子は、トントンと、私の机を叩いて、顔を覗き込んできた。
「大丈夫?」
柔らかい茶色の癖っ毛が、視界に入る。
彼はとても優しい人だ。そして、何故だか私に好意を寄せてくれている。
彼はいつも穏やかな雰囲気を纏っており、勉学も運動も優秀なので、クラスの皆んなから一目置かれる人気者である。
そんな彼から、どうして私が好意を寄せられているのか、全くもって謎であった。
謎ではあるが、私も彼が好きだ。
彼のあくびをしている姿が、近所のボス猫にそっくりなのだ。
彼もきっと猫好きに違いない。
そんな彼の顔もぼやける程、私の眠気は限界にきている。
しかも、今気づいたのだが、一限目の授業は数学だ。
高校に入ってから、数学に全くついていけなくなった私は、数学教師のイケすかなさも相まって、お腹が痛くなる程、数学嫌いになっていた。
よし、もう家に帰ろう。
私は鞄を持って、ふらつきながら立ち上がる。
「え?もしかして帰るの?」
彼はびっくりしている。
「眠くて仕方がないのよ」
か細い声でやっと答えた私の言葉に、彼は可笑しそうに笑った。
「まだ来たばかりじゃないか」
そんな事言われても、こんな状態じゃ、授業なんてまともに受けられる訳がない。
私はまたふらついた足取りで歩き出し、教室を出た。
廊下を歩いていると、彼が走ってきて私の横に並んだ。
不思議そうな私に、彼は笑って、「僕も君と一緒に帰るよ」と言う。
一瞬だけ眠気が吹っ飛んだ気がした。
「ダメよ。あなたはちゃんといい成績をとって、大学に行く人だもの。私とは違って、優秀な人だもの」
彼はやっぱり穏やかに笑って、「そんなこと、どうでもいいんだよ」と言う。
私は、うれしいやら、恥ずかしいやらで、気持ちがぐちゃぐちゃになる。
その困惑した気持ちが、眠気で更にぐちゃぐちゃにされ、私は立ち止まってしまった。
「ん?どうしたの?」
彼も一緒に立ち止まってくれる。
何か言わないといけないと思って、口を開いた。
その時、「こら!そこの2人!何をしているんだ!もう授業始まるぞ!」と怒鳴る声が後ろから聞こえた。
振り返ると、ぼやけた視界の中に、あのいけすかない数学教師の姿が入る。
「よし!走ろう!」
彼は私の手を引き走り出す。
色々考えなくてはいけない思考を全部放り出して、眠気だけが重りとなって、私は彼に支えられながら、なんとか走る。
パリーン!!
彼の鞄から、星海月の瓶が飛び出して割れた。
灰色の廊下に、カラフルな星海月の欠片たちがふわりふわりと飛び回り、それはキラキラと光ってとても綺麗だった。
砂糖の甘い香りもする。
「あー!後で食べようと思ってたのに!」
彼がそう叫んで、私はなんだか楽しくなって笑った。
笑った私の顔を覗いて、「まぁ、いいか!」と彼は言う。
彼の茶色の癖っ毛に、青い星海月がふわりとついて、キラリと光った。
私たちは、学校を出てもしばらく走り、大きな本屋に入り込んだ。
上がった息を整えて、彼を見ると、彼は楽しそうに笑っていた。
なんだか安心したら、また倒れそうな程の睡魔が襲ってきた。
「ここまできたら大丈夫だね」
彼は、今まで寄り添って走ってくれていたことが嘘のように、急に私から離れて、1人で本の海の中へ入っていってしまった。
寂しさを覚えながら、私も1人で本を物色し始めたが、ぼやけた視界と頭では、本の内容が全く入ってこない。
途中、光クジラの絵が描かれた、私が好きそうな水色の表紙の本があった。
また今度、頭がはっきりしている時に来ようと思う。
そんなこんなで、またまた眠気の限界が迫っていた。
もうこのまま床に倒れ込んで寝てしまいたい。
なんとか理性を保って、眠れる場所を探しに本屋を出る。
すぐ近くに公園を見つけた。
ベンチで眠れば1番良いはずなのに、視界に花壇が映った瞬間、あそこがいいと思ってしまった。
あの花壇で眠ろう。
花壇には、桃色、黄色、橙色の花が咲いており、その周りには、ひらりひらひらと、青い蝶が舞っていた。
レンガ造りのその花壇の縁に、私は座った。
目を閉じようとした時、彼のことが頭をよぎった。
せっかく一緒に学校を抜け出してくれたのに、一言も声をかけず、本屋を出て来てしまったことに、少しだけ罪悪感を覚える。
でもまぁ、仕方がない。
私は今、とても眠いのだ。
花壇の縁に横たわろうとしたら、目の前に彼がいた。
驚くほど静かに、彼は立っていた。
「こんな所にいたんだね」
彼は私の横に座った。
「ねぇ、私、とても眠いの」
「そうなんだね」
私は目を瞑る。
瞼の裏で、チカチカと光るのは、あの蝶の羽ばたきかしら。
「ねぇ、とても眠いのよ」
「うん」
彼が穏やかに笑う気配がした。
「眠っていいんだよ」
彼の手が、優しく私の頭を誘導し、気づけば私の頭は、彼の膝の上にある。
私の髪を撫でる手は温かった。
「ねぇ、私、今寝たら、長いこと起きられない気がするわ」
「そんなこと心配しなくていいんだよ」
「また私のこと置いて行ってしまわない?」
「君が眠ってしまったなら、ずっと側にいるよ」
「ねぇ、私、とても眠いの」
「うん」
「眠いのよ」
「うん、そうだね」
「ねぇ、私、」
瞼の裏に浮かぶ、彼の癖っ毛のふわふわした髪と、風に揺れる花壇の花々と、この穏やかな情景を思って、私の胸はいっぱいいっぱいだった。
言葉がもう出ない。
それでも、私の髪を撫でる彼の手は、全て分かっていると、伝えてくれていた。
「深く深く、眠っていいんだ。目が覚めたら、また素敵な世界が始まるからね。
世界の始めに、君は何を見たいかな?」
彼はきっと、陽だまりの中、優しく微笑んでいるに違いない。
「安心しておやすみ」
温かな太陽の光に包まれた草原で、遊び回る2人の子供の姿が、私の脳裏に浮かんだ。
目が覚めたら、その情景が、どれだけ私の胸を幸福で満たしてくれたのか、彼に伝えようと思った。
でもきっと、目覚めた時には忘れているのでしょう。
「おやすみなさい、いい夢を」
私の意識は、柔らかな闇の中へと沈んでいった。
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