見出し画像

国道69号線(#2000字のホラー)

車に乗っていて、不思議な世界に迷い込む話は時々お目にかかるが、私の場合は少し違う。

我が家のマイカーは3年前に廃車にした。
私達夫婦は共に七十代を迎えるのを機に、免許も返納したが、交通環境に恵まれた土地に住んでいるので問題無く過ごしている。

夫婦のアルバムには、結婚してから五台の車にお世話になった事が明確に示されている。家族構成が変わる度にアルバムは増えていく。その頃は活気があり、車も張り切って私達を運んでくれ、子供達が巣立って行くと、車は歳を重ねた私達夫婦を柔らかい時間で包んでくれたのだ。

私達は、必要なくなったガレージをそのままにしている。なぜと聞かれても困るが。

ある日、私達夫婦は何かに呼ばれたように、ガレージに向かった。鍵を開けて驚く。
そこには一台の車が止まっていた。それは我が家に最初に納車された車だった。

妻はなんとも言えない声を上げた。
懐かしいと思うべきか、奇妙と思うべきか、それとも怖いと思うべきなのか。
と妻を見てみると、彼女は車を優しく撫でているではないか。いや、恍惚と、と言うべきだろうか。

「おい、しっかりしろ」そう声をかけた。
「懐かしいじゃない、私達を迎えに来てくれたのよ。きっとそうだわ」久しぶりに見る妻の笑顔。
私は思わず言葉を飲み込んだ。

妻は運転席のドアを開けると優雅な物腰で運転席に身体を預けた。

「おい、止めろ」と言うが早いか、車はエンジン音を響かせる。

慌てて私は後部座席に乗り込んだ。車は動き出す。だが、ガレージの扉は閉まったままだ。

まさかと思うような事は、起こり得るのだ。そう、思いもしない時突然に。


車は滑るように走り出す。ガレージの外に出る事は無く、まわりの景色だけが流れていく。
妻はハンドルを握ってはいない。車は走行しているかのように揺れるが、なんとも不自然な揺れでもある。冥界にでも連れていかれるのか、大切に乗った車の恩返しか。どちらでも無いだろう。

「あなた、ほら見てよ」
私は思った。この女は妻ではない。妻は私の事を『あなた』などと呼んだ事は無い。結婚した当初は私を名前で呼んでいたし、子供達が産まれてからは、『お父さん』としか私を呼んだ事は無いのだ。

私は背中に冷たい汗が流れ出した事に恐怖を感じた。私は妻に恨まれるような事をしたのだろうか。いや、彼女の意見など無視してきた。だが他に女をつくるとか、暴力を振るうとか、決定的な事はした事は無いが、彼女を喜ばすような事をした事も一度だって無い。彼女の存在意義など考えた事も無かったのだ。その代わり、私は家族のため、外敵と闘うのだ。男とは本来こうあるべきではないか。

それを妻が、どう考えているのかと思った事さえ無い。多分、私は彼女に愛情などあまり感じないで一緒に暮らしてきたのかもしれないが、お互い様の部分もあるはずだ。無料奉仕のお手伝いさんの位置付けとしてしか妻を見てなかったかもしれない。
だが、それがどうした。
私は家族を飢えさせた事は無い。住む家も着るものも、上等では無いが用意できたのだから。

「おい」いつものように妻に声をかける。そうだ、結婚してから、彼女の名は『おい』になった。
子どもが幼い頃に妻を「おい」と呼び始め、私は笑ったのだ。妻の悲しそうな横顔がふと横切る。


車はスピードを上げる。どこを目指すのか。
「ここは何処なんだ」独り言を言った。ガレージの中なのはわかってはいるが。

妻は振り返り私を見据える。「ここは国道69号線」
彼女は短く答えた。

そんな国道は無いはず。
このまま、あの世に行くのか。妻ではない妻の正体は何なのか。私に恨みを持つ者か。 

「お前、何を考えているのだ」
「別に。思い出したの。新婚旅行から帰ってきて、あなたが最初に私に言った言葉」
甘い言葉でも囁いたのだろうか、そんな事覚えてなんかいない。

「オレは釣った魚に餌はやらんからな、覚えておけって言ったの。そしてその言葉をあなたは最後まで忠実に守ってきた。見事だわ」
妻では無い妻は、さもおかしそうに笑った。

「国道69号線とは何か、何が言いたい。そんなもの何処にも無い」

「分からないの?おばかさんね」

そう彼女は言う。と瞬時に妻も車も消えた。
私は一人ガレージの中に立っていた。

私は本物の妻を探した。探すまでもなかった。
妻は自分のベッドで呼吸をする事もせず眠っていた。

そうだ、しばらく前から、体調が良く無いようだった。そんな様子も気にしてやらなかった。
私のせいじゃ無い。サッサと病院に行かなかったお前が悪い。寿命だ。

私の脳裏にたった今見たばかりの、妻との最後のドライブとなった国道69号線の景色が甦る。なぜだか急に涙が溢れ出して止まらない。止まらない。

「分からないの?おばかさんね」
本物の妻の声が聞こえたような気がした。