帰納的に生きる

学びって演繹的に予めこうですよと教わっても理解は深められるけど、気をつけないとあるところで思考停止してしまう。できているってことに満足してしまうから。これが世の中でいうお勉強が得意な人が陥りがちな状態。なぜ、そこに至ったのかまで理解することが深みが出るヒントかなと。今ある勉強だって、強烈にハマった人からの副産物な訳であって、それもその人、その人たちが考えたモデルを利用しているにすぎない。その場に立ち会ってもいない人にそれを伝えるのは難しいからとりあえず動く形を教えて回していく。大半のアルバイト、仕事もそんな感じなんだろう。

逆に帰納的に考えると、一つ一つの事例が経験として蓄積されるから、実体験に基づくモデルが構築される。だから、次への応用が効くしどこを調整したらうまくいくかもわかる。きっとそれを突き詰めた、モデルは違えど、似たような価値観の人が集まるようになってるんだろうな。だってそのほうが楽しいから。

で、今はSNSが発達して個人が発信できるようになったから、より顕著にみえる。

"イシューから始めよ"にもある通り、論文や新聞、誰かが発信したことは断片的な情報でしかない。一次情報は人間が持っている。その人に聞くより一次情報を理解する機会はない。

わかったという感覚に陥りたいのか、わかった上で使いこなしたいのかでそのあとのアクションに活きてくるかは全く変わる。

最近その違いをひしひしと感じる。ビジネス本は読みやすく万人に刺さるけど、自分自身の現状にはそのまま流用はできない。エッセンスを噛み砕いて、作者の体験を、意図を理解して初めてわかる。


結果読む側より、それを書く側の人間の方が密度の濃い体験をしている。

イベントに参加する側より、イベントを実行する側の方が、

論文を読む側よりも、書く側の方が。


そうゆう次第で連投中です。

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