その時、何かが音を立てて切れた。

人によっては、特に男性陣によってはとても身勝手な話として感じるかもしれません。今思い返してみれば100%私が悪い、ということは決してないのですが、当時の私の心境から相手を攻める言葉しかつづる事が出来ませんし、またあえてそうした文章にしていくのでどうかご了承下さい。

半同棲状態の男から結婚拒否されてからも、色々話はした・・・と思います。これもだけど時系列ははっきりしないです。Kとの一瞬の煌めきの前だったかもしれないし、又はTとの再開の後だったかもしれません。でも私の中で色々疑問が持ち上がった時に、男は二つの事をしました。
一つ目は男は男の男友達数人と旅行にいきました。期間とかは覚えていません。仲間とは男の高校からの友達で、年末年始にはボットントイレのこのボロ屋に寝泊まりに来て、ゲーム三昧して帰ったりしていた仲間です。

私がこの状態で、次の未来を失って、経済も悩んでいる時に(知らない間に)旅行に行って帰って来て、そしてお土産がチン○飴でした。

こんな状態な私にこれ渡す?!私を見ているの?!私が欲しいのはエンゲージリングだ!婚姻届だ!未来を失った私に未来を通してくれ!

・・・そして今でもはっきりと覚えています。ある日男は私にこう言い放ちました。

「俺の為に色々と家のことをきちんとやってくれると思えない」

この言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で何かが大きな音を立てて切れました。

この人は今まで、私の何を見てきたの?経済考えて貯金はたいてこっちに引っ越してきました。部屋が狭くて、でも何度言っても読みも見もしないビデオテープやら本や雑誌を積み重ね、でも捨てたら絶対怒るだろうから、でもこんな事でイライラして毎日がつまらなくなるから、こんなボロ屋に引っ越してきました。私の為でもあるけれど、あんたのためでもあると思ってそうしてきました、私自身必要だと思って、日舞習った、ダンスも習った、でももう無理と悟ったから諦めました。いざとなったら結婚してくれると思っていたからここまできました。

それを何もしてくれなさそうだ〜?

この男はこうも言いいました。

「(私が)勝手にやった」

某学院にいた時の講師超有名声優さんは、結婚する時こう旦那様と約束していたそうです。
「家事とかも手を抜かずにやるから声優の仕事を続けさせてくれ」

同じ事を私に求めていたわけです。私も確かにそれは目指していました。でも無理でした。私はあの人ではありません。私には出来ません!私が目指していたのは私の勝手ですが、あんたもそれ私に求めますか!?おかしくないですか?

・・・・かくいうこの男は何をやっていたのだ?ダンスも日舞もやっていない、やったのは有志で集まって活動したこれだけ。これが解散してからこの男は何をやっていたの?

ちょっとしてからこいつはこんな事を言いました。脚本書いた。演出と出演もする、と。

は?役者になるんじゃなかったのですか?脚本書いて演出もする?今まで、そんな事したことないでしょ?

(この後、確かに一本芝居は打ちましたが)

・・・・某学院時代、それから有志集まって活動していた時も、常にもう一人男性がいました。彼は名古屋から来ていたがちょっと変わっていて、声優や役者になるつもりはなかったのですが、ただそれの経験をしてみたいと、それだけの為に声優学院に入学していました。
まあそこそこ金回りのいい、工場持ってる自営業社会人だったから出来た事だけれども、それでも週一、名古屋からそれだけの為に来る変わった人でした。名古屋に帰る為の新幹線が発車する時刻まで過ごす(寝る)為だけの部屋を某所に借りていました。(江頭2:50が住んでいた?のと同じアパートでした。後ほど判明)それだけの部屋なので、電気と水道のみの契約。トイレ共同、風呂なし。広さは4畳半なかったと思います。部屋内部に小っさい流し。ガス管はあったけれど契約していないので使えず。週一土曜日の有志で集まっての勉強会の後に飲んで、ここに泊まって朝帰るということもしょっちゅうやっていました。ここの部屋を借りていたのはその名古屋在住の男性なのに、半同棲男は自分の部屋のように使用していました。確かに名古屋男性とは仲が良くて、了解は得ていたけれど、気づけば私が引っ越して借りた部屋が今度はそうなっていました。確かに折半だったけど、礼金、敷金は全部私が出したのに。

ちょっとでも返そうだとか、自分も使っているから掃除くらいしようだとか、そういう発想はなかったのか・・・・。

胡坐をかかれた

ここまで考えが及んだら、もう引き返すことはできなくなりました。男に対する私の態度があからさまに酷くなり、それを隠す事も出来なくなりました。それでも判を押したように決まった週に来るあの男の図々しさ。

男が泊まりに来る日は、私はネットカフェに行って、そこで一日以上過ごす日も随分ありました。そばにいるのさえ、もう嫌になっていたから。

Tの存在を隠すことさえしなくなっていました。


男への反動はやがて自分に向かう

口先だけの男。こんな男の話を真に受けて、十数年以上も連れ沿った私。20過ぎから30歳過ぎるまでの一番輝いているだろう時代をこんな男に捧げた自分。
信じた私が馬鹿だった、そんな一言で済ませられる長さではない。そんな男を選んだのは自分なんだ!
馬鹿な馬鹿な馬鹿な自分。30過ぎの、結婚もしてない自分、十年も添った男に結婚拒否された自分。資格も持っていない自分。正社員でもない自分。ただのしがないフリーターの自分。夢追ってるうちはそれがフリーターの自分へ言い訳?でした。その言い訳すらもなくなりました。


自分が壊れていきました。もうなにもかもどうでもいい。住んでいたボロアパートに火をつけたいとも思っていました。全てリセットしたい。何もかもやりたくない。部屋はプチゴミ屋敷状態。


プチゴミ屋敷

プチゴミ屋敷でした。何にもする気が起きないのです。ただ生きて行くだけの為に食べているような状態なので、食べて飲んだあとは放置です。後片付けしようともしない。食べたら寝る。の繰り返しでした。だから布団周辺に 弁当の食べた空やペットボトルが散乱してました。客商売のバイトだったからシャワーだけは浴びてましたが、毎日ではなかったと思います。ヤバイなとは思ってましたが反面どうでもいいと思ってました。寝てしまったらこのまま目が覚めなければいいと思ってました。希死念虜。火をつけて部屋ごと自分も燃やし尽くしたいと思っていました。
死にたいというよりも、自分という存在を痕跡も残さず消したい、自分という存在をきれいさっぱりなかったことにしたいという思いでした。


疑似胎内

なってみて解りました。あの状態は、母親の胎内にいる状態です。何もしなくていい状態。守られていて、丸まって寝ていればいい状態なんです。栄養だって自分から摂取しなくていい状態。排泄も自分で始末しなくていい状態。流石に母親の胎内からは出てしまっているのでそういう訳にもいかないですが、なるべく近い状態にして、自分を護る術が、あの状態を引き起こしたと。あの時は誰とも話すらしたくなかったです。疲れてしまうから。そうして枯渇してしまったエネルギーを充電している状態でした。ただ鬱は回復しかけが一番自殺率が高いって聞いた事ありますがわかります。この状態は、エネルギー使い果たしていて、自殺する気すら起きないのです。今思い返しても本当に危ない状態でした。


読んで下さっている方、ありがとうございます

ここで一つ訂正させて下さい。(自己診断)鬱病、となっていますが、ずっと気分が落ちていた、という訳ではなくて、時には気分が高揚していたこともあった、ということをつけ加えさせていただきます。その気分の高揚と下降の差が物凄くあった時期もあり、まるでジェットコースターに乗っているように、誰かの一言で、気分がガーッと上がったり、何かの拍子でドーンと落ちたりした時期もあるのです。一日のうちにそれを何回も繰り返すので、それが激しすぎて疲れてしまうし、そしてそういった気分の浮き沈みの激しさをコントロール出来ませんでした。この辺りは時系列をよく覚えておりません。こんな事あった、そんな事考えた、というようなことを思い出せる限り羅列しておきます。

◎うさぎと亀:ご存知寓話。あれ、亀の諦めずに頑張れば勝てる事もあるよ?みたいな話でしょうか。でももしうさぎが途中で寝なかったら亀は絶対にうさぎに勝てません。そもそもうさぎと亀を競争に引っ張り出し、スタートラインを同じにするのが理不尽。同じ土俵に立たせるものではない。でも何故か世の中はスタートライン同じにして、能力の違うものを同じ土俵に立たせ、競わせる。亀がうさぎに勝つには?はなから競争しない。私は亀で、違う方角に歩み出したはずなのに、そこでも負けたのか。

◎某焼肉屋にあらためてパートに入った時(結婚してると唯一詐称して入ったところ、鬱が一番酷いとき、プチゴミ屋敷状態の時)に納品された卵の数が数えられなかった。いくつまで数えたのかすぐわからなくなり、何回も数え直した。

同じ焼き肉屋で一緒に働いていた当時学生バイトだった子が就職、結婚して、同時期に働いていた学生やパートさんが二次会に招待されて参加したのですが、バイト学生さんの顔をほとんど私は覚えてなかったですね。

◎売り物のワインが店に納品された時、絶対こんなところに置いたら転がって落ちるよな、頭ではわかっていたのに不安定な場所に置き、転がり落ちて割れさせました。結構いい値だったのでバイト代から差し引いてもらいました。

◎チャットで知り合った男性(ただしメールのやりとりだけ)に今の自分の状態をメールしたらこうすれば?と返ってきたメールの内容に激昂し、暴言吐きまくりのメール返した後に着拒。

◎同じくチャットで知り合った別の男性にストーカーまがいの行為。ちょっとした心理テストで言い当てられて、私の事理解できるのはこの人しかいないと思い込み(又親切にも優しい言葉でメール返していただけるものだから)真夜中にメールを送る。しかも長文を何度も。デート約束までこぎつけたが、当日現れず。その後もその人宛に何度もメールを送る、途中で拒否されるようになると、知り合ったチャットルームでその人宛にメッセージ送り続ける。

ストーカー被害にあったら、とにかく拒否し続け、会わない、接触しないのが一番です。溺れる者は藁をも掴む。正に藁なのです。手離したら助からない、そんな心境が一番近いのがストーカー。本当は溺れない、立てる場所にいるのに気づいてないんです。私ももう接触すらしていないのにいちるの望みを信じ続けて半年くらい色々やってましたからね。そのチャットルームが廃止されて確実に接点が失くなってようやく諦めたのです。普通の精神状態じゃないですね。

◎本当は芝居が好き、ではなくて芝居をすることで自分を繕っていたのでは、という自分自身に対する疑惑。演技性人格障害という言葉を知る。この発見も自分自身にはキツかった。自分の精神の安定性をはかるための芝居だったのかもと考えたら、安全弁を外したかもって思った。

◎以前出てきた男性Tにバイクの後ろに乗せてもらった時に、その時に巻いていたストールが外れて後輪に巻きついてしまった。Tは勿論激怒。(それでもその後もつき合いは続けてくれてた)今思っても死に直結するようなとんでもない不注意なのだが、希死念慮の強かった私は、Tには悪いことをしたとは思いつつ、その時に転んで死んでも別に良かったって思っていた。

◎これに限らず、事故や殺人などで死亡のニュースが流れると「羨ましい」と思ってた。

自分の命を大切に思えない人は他人の命も大切に思えない。

◎住んでいたアパートに火をつけたいと何度も思った。死にたいもさることながら自分の存在そのものをこの世から消し去りたい思ってた。全てゼロにしたい、無にしたいと。

◎年賀状は出し続けた。ずっと手書きだったが、毎日死ぬ事ばかり考えて、死に方もこうしようと実行する一歩手前までの段階だった、鬱が一番酷い年の年賀状はなんとかやっと出した。
出した理由は、毎年届いているのに今年は来ない、何かあった!?と受け取られるのが嫌だったから。年賀状出す相手は普段は会っていない人達ばかりだから、数年経って、え?!死んだの?という状況にしたかっただけ。


待っていた

毎日死ぬ事だけを考えてました。あの時はかろうじてアルバイトして、でもバイト先でもやたら泣いていて、でも何故涙が出るのかわからなくて、もといその意味すら考えるのもやめていて、プチゴミ屋敷状態になっていて、コンビニで買った食料を食べてはゴミ箱に捨てることもせず、寝床周りに放置、時間があれば寝床で転がっているだけの日々。
昔、自殺に思考を巡らせた時は、青木ヶ原樹海に行ってとか、東尋坊で海にダイブとか考えたこともあったけれど、そんな考えはただの遊び。遠出する気力さえない。
ただひたすら、苦しまずに、そして楽に、確実に。


あの年の冬、暖冬でなかったらもしかしたら実行していたかもしれません。これから生きていくのに希望も何も見出だせなくて。

真夜中にあの橋の下に行って、ウイスキーをストレートで一気に飲み干して、そして眠りにつこう。


その時


  氷点下になる夜



を天気予報を聞きながら待っていたのですが、あいにくその年は暖冬。氷点下になる夜は数える程しかなく、次の日がバイトだと早く発見される可能性が高いから、丸一昼夜、姿が見えなくても探される恐れがない、バイトが休みの前日の夜の氷点下を待っていたのですが、とうとう3月になってしまい、暖かくなってきてしまいました。

3月のある日、海に行きました。入水かな、そんな事ボンヤリ思いながら。でも行った海は有名な観光地。まだ春先とはいえ、どこに行っても人の目がありました。

自殺。死。死といえばどうしても思い至ってしまう人がいます。それは6才上の実兄です。私が小学校5年生の春に交通事故死しました。くしくも命日は私の誕生日の翌日です。


私は母親が38才の時に産まれた子供です。高齢出産ではなくて、戦前生まれの両親だから子供4人なんて常識時です。きちんと育っていたら6人兄弟姉妹になっていたのです。聞いた話では最初の子は流産、次の子は生後3日で亡くなり、次の男の子が無事に育っていった、次が長女、3つ上の姉で次が私、年子の弟。

そのやっと無事に育っていった長男が、18才という若さで突然亡くなったのです。母親50歳の時、ということになります。

一番の親不孝は親より先に亡くなってしまうことだと聞いた事ありますが、兄は別に死にたくて死んだ訳ではありません。鬱時の私と両親は、この時は既に書いた通り音信不通状態でしたが、それでもやっと育って、さあこれからって時に亡くなってしまった、その時の両親の悲しみややりきれなさ等色々考えたら、まだ私は、兄が亡くなってしまった母親の年齢50歳にもなっていない。今はまだ自分から死を選んではいけない、と思いました。せめて兄が亡くなってしまった母親の歳、50歳までは生きていかなくちゃ、せめて両親が亡くなるまでは自分から命断つのはやめよう、

海をずっと見つめながら考え続け、そういう思いに至ったのです。

助けてくれたのは、どんな関係でも相性最高の亡くなった兄の存在でした。

死ねなかったのです。死ねないのであれば生きるしかない、生きようと決めたのです。そしてどうせ生きていくのなら、道端に咲く名もない花でも綺麗と思える、そんな人生にしたいと思ったのです。

私は再び生きていくことを選んだのです。

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はじめに;辛い、この状況からぬけだしたい、変わりたいと思っているからこそ、ここに辿り着いた。それにまず気が付いてください。

はじめに;この記事に辿り着いた貴方はきっと、今辛い立場にあるでしょう。でもこれは私の事なので貴方の役には立たないかもしれません。でも少しで…

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