家族

ここでこの話をします。後々の私の精神状態に大きく関わってくるので。

本物の心理テストという本を買った時に不完全家族とか家族との距離と役目みたいな話が出てきて、それに自分を中心にして、家族の距離感と大きさを単純な図にしてみましょう、みたいなのがありまして、やってみました。

私を中心に一番近くに据えたのは父親。私の丸より大きめの丸を書いて線で繋ぐ。次に近いのが弟。父親と同じか、少しだけ父親より遠くに、円は自分よりやや小さめの丸。次が姉。距離は父親、弟よりも遠くて、でも丸は私より一回り大きく描く。次は母親。私からの距離は姉よりもさらに遠くして、丸は姉よりも小さ目。最後に兄。既に亡くなっていたので繋いだ線は点線。でも丸は父親より少し小さ目。

当時はこんな感じ。

もっと私が幼い頃にもしこれを描く機会があったら、兄は一番遠くて、そして丸ももっと小さく描いたでしょう。

それほど兄は幼少の私にとっては存在が薄かったのです。歳が離れていたせいもあったでしょう。一緒に遊んだ記憶も、しゃべった記憶もほとんどありません。6歳離れていたから、兄が小学校卒業したと同時に私は小学校入学。性別も違うし、兄との間に姉。私の下には弟。弟と兄とはよく遊んでいたような記憶があります。

うちは貧乏だったと思います。少なくとも中流家庭ではありませんでした。私が自分専用の自転車をやっと手に入れたのは小学校高学年になってから。それもお下り。家族で泊りがけの旅行なんて一回も行きませんでした。夏休みに高尾山に山登りに出かけるのが精一杯。それも全員ではなく、父親は必ず居て、母親は絶対いない。私の記憶には兄がいた試しはない。家族全員で出掛けたのは親戚の葬式でしかないです。それも日帰りできる近場です。自家用車もなかったので公共機関を利用しての外出でした。

その兄は、私が小学校5年生の時に突然亡くなりました。18歳でした。交通事故死でした。そしてその命日は私の誕生日の次の日でした。3日間昏睡状態の後、4日目に亡くなりました。頭を打っていたのでこのまま植物状態か、意識が戻ったとしても一生寝たきりになるかもしれない、と言われていたようです。

漫画タッチでかっちゃんが交通事故で亡くなった時に、病院に駆け込んだ南に「嘘みたいだろ、死んでるんだぜ、それで」というセリフがありますが、リアルだなと思いました。兄も顔は綺麗で寝ているようでした。

兄の葬式の時葬儀屋の誰かが参列者の前でマイク通して話していました。兄はこの時高3です。『俺、卒業したら働くよ』そう言っていたらしいです。家庭の実情もよくわかっていたのでしょう。アルバイト先の警備会社の人においでと言われて、今で言う内定もされていたようなんです。この辺りがいわゆる大人の事情です。

私の事情といえば、今までそんな事した事なかった兄が、この年に「もうすぐ誕生日だから」と1000円くれたのです。これが実質最後の思い出になります。最初で最後の兄からの贈り物。

遺体が6畳の部屋に寝かされている時は、何をどう感じたらいいかわかりませんでした。グルリと家族で囲んでいて、誰も声を発しませんでした。私は足元の位置になったので、もう動かなくなってる足先だけを、見つめていたように思います。

ただ、棺に入った遺体の周りに花を置いた時だったかな。もう動かなくなった兄の顔をまともに見た瞬間に涙が溢れ出してきたのです。ブワッと。
悲しいだとか寂しいだとかそんな言葉で表さられる感情ではなくて、無意識下での何かが揺さぶられた感じだったのです。言葉にするとしたら本能的に死を理解した、という感じでしょうか。出棺して、火葬場でいよいよ最後のお別れという時に、私は、兄の顔をもう一度見る事を拒んだのです。「泣くから嫌だ」と。本能的な部分で死と言うものを受け入れられなかったのかなと思います。

私はいじめられっこでした。が、この年はクラスメートや先生等に恵まれて、親友とよべる友達も出来て、今までいじめられていた分、一番楽しくて充実した義務教育の時期になりました。前に述べたように兄との関わりは薄く、よっておそらく家族の中で一番ダメージが少なかったと思います。数カ月たってもまだ落ち込んでいる両親を見て、死んじゃった者いつまでも悲しんでいても生き返らないのにと思っていたくらいです。

後にこれは

自分の幸せと周囲の幸せは必ずしも一致するとは限らない

という真実の到達になります。

後々、鬱時に自分の家族を振り返った時に、私が十代前半の一番楽しかった時期は、家族全体をみれば一番キツイ時期だったのです。兄が間もなく働き出して、家計的には楽になると思った矢先の死です。まだ義務教育過程の子供が三人もいて。

兄は3日間昏睡状態の後、4日目になくなりました。突然だったから、まだまだ生きたかった筈です。でも植物状態か、一生寝たきり。医者にそう宣告された時、両親は戸惑った筈です。植物状態継続したらどうしようと。家計状態を知っていた兄は死ぬことを選ぶしかなかったのです。ただ私の誕生日を避けて次の日に。
3月のあの日,海を見つめながら想いを巡らせて、そう思えて仕方がありませんでした。だから私は死ぬのをやめたんです。

それからは我が家は私の誕生日は翌日、兄の命日として迎えられるようになります。

以前から私と家族との疎外感みたいなものは感じておりましたが、それに気づいてからは一層家族との疎外感を感じるようになりました。家族だけど家族じゃないような。

でも家族だからって相性がいいとは限らない。反りの合わない家族だって存在するのです。家族だから仲がいいとは限らない訳です。某占いで、なんとなく当たっているな〜と感じたのはそんな事を考えてからでした。

反りの合わない家族。ここから何かを学び取ると、この家族から卒業して、新しい、自分の理想とする家族を創っていく。それが結婚だ、なんて某氏の著書には書いてありました。



希死念慮の冬を超え、春先に生きることを選択した私。でもだからってそれですぐ気持ちがアップしたわけではありません。それこそ長期戦を覚悟して・・・・いや、違う。今まで頑張り過ぎたのよ、あなたは。だからゆっくりたっぷり休んで、そしてゆっくりと動き出そう。どこかの文章で読んだ低空飛行という言葉を胸に、ゆっくりと始動しました。

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はじめに;辛い、この状況からぬけだしたい、変わりたいと思っているからこそ、ここに辿り着いた。それにまず気が付いてください。

はじめに;この記事に辿り着いた貴方はきっと、今辛い立場にあるでしょう。でもこれは私の事なので貴方の役には立たないかもしれません。でも少しで…

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