頭硬いのでは?

久しぶりに笑点を見たら、たまたま志らく師匠出演だった。過去に著書で笑点を批判したことと、後々新幹線で笑点の面々と同一車両になり、気まずい思いをしていたら円楽師匠にアンパンをもらい感激して、その恩を返すつもりでオファーを受けた、と番組冒頭で語っていた。

裏事情も色々あるだろう(視聴率低迷だとか)。
でも、その昔の確執があったにせよ、オファーした日○レも、受けた師匠も、素直にいい話だなと、思った。

志らく師匠の言った、落語冬の時代に繋いだというのは間違っていないと思う。

今から数十年前、高校の芸術鑑賞の一環で、故歌丸師匠がきたことがある。高校生なんてほとんど落語なんてまともに鑑賞したことある者はいないだろう。私もご多分に漏れず。過去の芸術鑑賞会でどこかの劇団がきた時は、始終生徒がざわついて聞き取れず、あらすじも何も全然わからなかった。楽器の演奏はモノがものだけにきちんと聞けた。(曲が始まったら静かになった、と思う。うろ覚え)
落語はどうなんだろう、大丈夫かなあ、と思っていたら、歌丸師匠は2時間くらいの持ち時間のうち、一時間半くらいは笑点の話をしていた。さすが現在56年目の長寿番組、当時でも皆それなりに見たことあったのだろう、始終爆笑に包まれていた。そしてラスト30分位で「鶴」の落語を話して鑑賞会は終わったが、誰も騒ぎ出すことなくきちんと鶴の話を聞いていた。
これが私がきちんと落語を聞いた最初の出来事だが、今思うと笑点の話で高校生を爆笑させて、鶴の話を最初からオチまできちんと聞かせた歌丸師匠の手腕は凄いと思った。こんなところが、落語界冬の時代を繋いでいたのではないか。
笑点がなければこれはなし得なかっただろう。落語なんてまともに聞いたことのない高校生相手に。(受験時定位数360人だったので、ざっと数えて全校生1000人くらいだ)

ところで、ネット界隈で、この志らく師匠の笑点出演を快く思ってない人達の批判書き込みがあるという。
私は読んでいないが、そして何しても批判するものはいるものだが、「(笑点を)批判したのならそれを貫け」とあったが、これはちょっと違うのではないか。
確かに昔は落語を誤解させる番組と思ったことだろう。それはある意味間違ってはいない。でも、落語を繋いだというのも、少なくても志らく師匠はそう思っていて、そして感謝しているというの率直な気持ちだと思う。考えが変わったっわけではないし、いうなれば年齢を経て丸くなったのかもしれない。
昔、若い頃と今と考えが変化してもいいし、許せることが増えた、と言ってもいい。
かの上岡龍太郎氏は、若い頃、マラソンという競技が理解できなかったという。なんであんな苦しい思いをして長距離を走らなければならないのかと。公然とそう発言していたと。ところがそれが長距離に目覚めて、自ら走るようになったと。

詳しい経緯は全く知らないが、そう話をしていて、今は毎朝のマラソンが日課になっているとその時語っていた。

年齢を経て考えが変わっていったっていいと思う。それはブレているとかそういうことではなくて、本当に大事なことは何なのか、それがわかった時に、その大事なモノコト継承するための道筋がいくつもあった、ただそれに過ぎないのだから。

企業で上のお偉いさんの頭が固くて閉口しているという話をよく聞く。飲みニケーション云々だったり、リモートワーク云々だったり。
志らく師匠の笑点出演を批判するものは、この頭の硬いお偉いさんと本質は変わらないのでは?。

志らく師匠や日○レの方がが全然頭柔らかいと思うぞ。

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