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夢のさいはて

 またきょうも、目が合ってしまった。彼の友人だという陶芸家からもらった、ふたつのカップと。
 備えつけのキャビネットに並ぶ手づくりのカップは、鮮やかなコバルトブルーと、とろんとした飴色が特徴的だった。わたしより十センチは高い場所に置いてあるそれらは、毎日わたしを見下している。
 ふいっと目を逸らし、一段下に並んでいるアラビアのマグカップを手に取った。アラビアの食器が好きだ。とくにパラティッシシリーズは、自分の名前と重ねて勝手にときめいている。社割で買えるし、少々手荒に扱ったって割れないのもいい。
 夫の洸太が傍に立つ。彼はすんなりと、コバルトブルーのカップを手に取った。キャビネットに収まるふたつの陶芸品は、アラビアのなかに混じって異色に光って浮いている。
 わたしが淹れたコーヒーを、彼も注いだ。もらうよ、とつけ加え、さっさとキッチンを出る。さほど遠慮のないさまに、まだかろうじて夫婦のかたちをたもっていると言える。
 結婚二年目、会話あり、ときどきなし、子どもなし、予定なし、一向に予定なし、まごうことなきセックスレス。
 冷蔵庫を開けた。職場でいただいたパウンドケーキが入っている。
「洸太、パウンドケーキ食べる?」
「うん」
 洸太はすでに、ダイニングチェアーに腰かけていた。わたしは冷蔵庫から個包装されたパウンドケーキを取り出す。銀色のアルミ箔で包まれたそれは、何度か食べたことがあった。洋酒漬けされたフルーツがごろごろと入っていて、とてもおいしかったのを覚えている。アラビアの小皿にひとつずつ装い、ダイニングテーブルに持って行った。ありがとう、わたしを見上げて彼は言った。洸太はもう、コーヒーをすすっている。カップのなめらかなくぼみに白熱灯が当たって白光りし、あざやかで深い青がつやつやときらめいている。
 カウンターに置いておいたわたしのマグは、この日も青いパンジーとカシスだ。印刷された大量生産品と、この世でたったひとつのカップ。コーヒーの味なんて変わらないだろうに、なぜこんなにも蔑まれた気分になるのだろう。
 ついでに、洸太のカップと隣に並ぶアラビアの小皿は、まったく調和が取れていなくて笑いそうだ。違和感ありありで、たちの悪いいやがらせをしているみたいだった。
 椅子に座る。会話あり、ときどきなし、今からおそらく、なしの状態になる。洸太はおそらく、パウンドケーキをささっと食べ終え、コーヒーを飲み終え、ていねいにカップだけは洗い、寝室に向かうにちがいない。
「いちか」
「なに?」
 まちがいだった。あり、の状態らしい。
 パウンドケーキの包装を開けた。ぺりぺり、とはがれる音は、手慰みのようだった。
「オレと離婚してください。お願いします」
 よくないことを告げるとき、ひとはさりげなさを装う傾向がある。ていうか「あり」って、そういうことですか。
 下げられた頭が深すぎて、洸太のつむじがよく見えた。撫でると柔らかい焦げ茶の髪の毛が、ゆらゆら揺れている。わたしが彼の髪に触れたのはいつだったか、もう思い出せないほど以前だ。
 わたしは一度も、飴色のカップを使ったことがない。

 洸太と出会ったのは二年前のコンパだった。
 その日は夕方から雨模様で、店に着いたころには窓に雫が散らばっていた。彼はすこしだけ遅れてやってきて、濡れたネイビーのスーツの肩のあたりを、ぱっぱっと手で払った。遅くなってすみません、と口先だけのような謝罪をして、空いているわたしの隣の席に座った。
「伊藤洸太です」
 彼はわたしに会釈し、自己紹介する気なんてまるでないように淡々と呟く。ありあまる無関心が癪に触り、とびっきりの笑顔をつくった。
「森本一果(いちか)です。お帰りになりたいならあちらですよ?」
 すると彼は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、それからぷっと吹き出した。
「はは、すみません、帰りません、はは! ウケる」
 笑うと覗く八重歯が印象的で、口角がぎゅっと上がるのがかわいく見えた。他意なく彼は見栄えがよかったし、敬語のなかに混ざる砕けた口調に、ありていに言えばきゅんとした。会話をしていくなかで、彼が地元情報誌の編集者だと知る。わたしがインテリアメーカー勤務だと話すと、仕事の話題まで軽やかに弾む。
 彼は最初ビールを飲み、何度かおかわりして、次は赤ワインにしようかな、とほのかに色づいた頬を緩ませた。透明なグラスに映るビールの琥珀色と白い気泡が、チェーンペンダントの電球色ときらびやかに混じり合う。急に琥珀色のグラスがほしくなり、代わりにわたしは彼の連絡先を尋ねていた。
 彼は帰らなかった。最後までずっといた。けれどとき折り見せる、そらめいた仕草や曖昧に濁す瞳に、ここにはいないだれかに気を取られる彼の空虚を垣間見た。彼しか知らないだれかさんが、羨ましくなった。このひとの八重歯を一心に向けられるひとが。
 しばらく経って、彼から短い連絡がきた。
 ――会いたい。
 颯爽と仕事を終わらせ、待ち合わせ場所まで急いだ。散る霧雨が、揺れ動く傘から跳ねる。ブラウスに染みをつくり、フレアパンツとヒールの隙間から水滴が侵入し、爪先に伝う。
 駅前のベンチに座っている彼のネイビーのスーツは、また濡れていた。傘はおろか、水滴を払うことさえしない。頬にまとうまだらな小雨のせいか、彼は何度もまばたきしていた。街灯が、空を仰ぐかたちのいい鼻筋を照らしていた。
「伊藤さん、また濡れてるよ」
 わたしに気づいた彼の目はおぼろげに揺れていて、瞼にちらつく雨が涙みたいだった。こんばんは、と彼は言う。力なく笑っても覗く歯のかたちは同じだった。夜の挨拶に、わたしは返すこともしなかった。
「わたし、伊藤さんが、好きです」
「ごめん、知ってました」
 ごめんってなんだろう、でもそんなのどうでもいい。
「あの、もしよかったら、ホテルいきませんか?」
 ていうか、いきたい、です。
 言ってしまったあと、猛烈な羞恥が襲う。もしよかったらで誘う場所がホテルっておかしい、飲みましょってわけじゃないんだから。体をあずけるのはわたしであって、というか彼の都合も考えないと。
 でもわたしには、彼が断らない自信があった。雨さえ気に留めない、彼の縋るような気配につけ込んだ。「ごめん」の理由なんて、取るに足らないことだった。
 わたしを抱く彼の手も唇も舌も、定型文のような動きだった。彼のなかに衝動的な興奮は感じなくて、すこしだけ動揺もした。指がわたしのなかに入るとき、一瞬躊躇したのを見逃さなかった。見上げると、ごまかすように動かされた。探る気配がたどたどしくて、でもそこに触れたとき跳ねるような声を上げると、とても満足そうに指を動かし続けた。
 つたないと言われればそうで、はっきり言えばよくも悪くもなくて、なのに気持ちよくて、わたしには、彼の体も触れかたも、ぜんぶかわいく思えた。背骨の真ん中が、ぎゅうっとうなった。
 セックスって、動作じゃない。好きなひととする行為だから気持ちよくていやらしいんだ。
 つき合いはじめたわたしたちは、一年もしないうちにレストランウェディングを挙げた。周囲からの祝福、綺麗で整った新築マンション、揃えてきたアラビアの食器たち、笑うとこぼれる、あのひとの八重歯をひとりじめ。
 どうやらそれは、長くは続かないようだ。目の前に叩きつけられた一枚の離婚届と、この状況。
 洸太が記入すべき箇所と捺印が、すでに半面を陣取っている。
「ちょっ……と、待って。よくわからない、んだけど……」
「ごめん」
 真っ直ぐ洸太を見るも、彼はうつむき、離婚届を見つめている。
「ごめんじゃなくて、説明してよ。どうして?」
「どうしてっつーか……」
 だってふつう疑問でしょいきなり離婚届なんて叩きつけられてそんなのふつうどうしてって聞くでしょふつう、わたし間違ってる?
 ふつうふつうとたたみかけると、洸太は頭を掻いた。口を一文字に結び、喉からうなってばかりで言葉にしない。
「ねえ……、だからなんで? やっぱり浮気してんの?」
「やっぱりってなに。してねえよ」
 あまりにも怪訝そうに眉根を寄せるので、こちらが言いがかりでもつけているような気分になる。だから、なんであなたが被害者側に立つの、逆でしょ、あなたは加害者でしょ、だって、わたしたちの生活を思い返せば、一番に浮かぶ理由でしょ。
「ほんとにしてないの?」
「してない」
 わたしが鼻で笑うと、ほんとだって、と洸太は苛立った。その焦燥は、わたしが持ってしかるべきものじゃないのか。あなたの言葉で順を追って説明してほしいのに、どうして結論だけ伝えて解決できると思っているのだろう。
「じゃあ証拠ちょうだいよ、スマホ見せて」
「え?」
「してないんだよね、浮気。ならいいじゃん、スマホ。ライン見せて」
 驚いた様子ではあったが、動揺を隠された気配はない。洸太はしぶしぶポケットからスマホを取り出し、ロックを解除した状態でわたしに手渡した。心のなかで舌を打つ。先手を打たれていたのかもしれない。
 彼のラインのトークルームには名前やニックネームがずらりと並んでいて、一番上には男性の名前がある。その次は同僚の女性のようで、「お疲れさまです。今度の取材先にアポ取れました絵文字絵文字スタンプ」と、特別不審な会話はない。スクロールしても、ほかの女性とも同様のやり取りだ。
 浮気はしてない? ほんとうに? じゃあなんで?
 自然と眉根が寄り、皺が増えたらどうしよう、などと筋違いなことを考える始末だ。仕方なく一番上の男性の名前を見る。いや、一番上にあるのだから、洸太がこのひとに情報を漏らしている可能性はないだろうか。一縷の望みをたよりに画面を開き、がっくりする。
「メシいかない?」「いいよ」「どこにする?」「伊藤さんに任せます」スクロールしても無駄話だけで、親しい友人のひとりにしかすぎなかった。洸太が彼に相談事を持ちかけている素振りはない。頭をもたげたくなるほど真っ当で、瞼の裏が暗闇で満ちた。なにか、なにかわたしに教えて、お願い。
 なにもないなんて、ひどい。
「成瀬(なるせ)、旭(あさひ)……」
 このひとがわたしの、わずかな希望だったのに。
「ああそいつ……、トモダチ。このカップつくってくれた、陶芸家の」
 青いカップを持ち上げ、洸太は縁に口をつける。ずず、とコーヒーをすする音が、静かなリビングに響いた。妙にまごついた口調なのは、スマホを人質に取られた居心地の悪さだと思う。けれど、ここまでして証拠もなにも掴めなかったわたしは、もっと惨めだ。
 おまえの敗けだ、と冷ややかに嘲笑われているようだった。
 奥歯をにじりながら彼にスマホを返すと、鼻白んだような顔で受け取られる。洸太はカップを持ち、寝室に歩き出す。
「ねえ、待ってよ」
「ごめん、オレの気は、変わらないと思う」
「なんで? わたしたち幸せだったじゃん、ねえ、なんでよ」
「幸せ?」
 洸太はふり向き、はっと息を吐く。
「幸せって、なに? いちかもさあ、ほんとはわかってるだろ。オレじゃないほうがいいって」
 おやすみ。
 寝室のドアが、すうっと開いて、閉じる。闇夜で影が絶たれたように、洸太は姿をくらました。
 しあわせって、なに。
 椅子にもたれたときの木材のうなりが、いまいましく感じた。壁を覆う真っ白なクロスは、照明が反射して暴力的な眩しさだ。瞼が自然と温くなり、視界がぼやけてくる。
 しあわせって、いったいなんだろう。
 結婚して三ヶ月経ったころ、洸太はわたしに触れなくなった。最初はそう、定番中の定番、ごめん疲れてて。次は、あした早いから。それが続き、わたしも徐々に焦りはじめた。自分のなけなしの魅力を疑い、彼の心変わりを勘ぐった。一度は聞いた。わたしがだめなの? まさかだれか、と。けれど洸太は大袈裟に見えるほど手をふり、八重歯を見せるのだ。なに言ってんのそんなわけねえじゃんまじで最近忙しくてごめんな。そう言って、からからと笑い飛ばした。
 一旦安堵したのも束の間、絶望する日はあっけなくおとずれる。ベッドでわたしに背を向ける洸太に、そろりと手を伸ばしたときだった。
「ごめん」
 そう呟いて身じろぐのだ。謝罪よりも憂鬱さが滲む仕草に、恥ずかしさで顔が熱くなる。長く続いた没交渉のせいか、気遣いの「ごめん」とはとても思えなかった。刺しこまれる拒絶の棘。
 卑しくてはしたない女め!
 言われてもいない台詞、背中の圧力に、わたしは咎められている。
 惨めだ。惨めだ惨めだ惨めだ。ならせめて、彼にひそむ気鬱さに勘づいていないふりをする。気取られたら終わりだ。
 その日の未明たまたま目を覚ますと、背後から、むわりと色濃いにおいが立ちこめてくる。何度目をしばたかせても頭と体の整理は追いつかず、指先をすこしでも曲げようものなら覚醒を悟られそうでこわかった。
 は、は、と洸太の色めいた吐息が、とき折りわたしの背に降りかかる。ティッシュを引き抜く雑音が、静寂な寝室に入り混じった。彼は噛みしめるように声をつまらせ、最後に深く息を吐いた。
 こみ上げたのは間違いなく、怒りと絶望だった。そして、このひとはわたしを抱かない、という確信。自慰行為で満たされ、わたしの欲は否定する。それっていったいなんだろう。
 わたしたちは、尊重し合っていた。家事の分担、互いに不得手な部分は補い、一緒に笑い合える。夫婦なんてかたちはさまざまで、感情も生活も浮き沈みがあって当然。セックスだけで愛情のかたちを決めるなんて、間違っている。
 はは、なにそれ。
 なにそればかじゃないの? セックスするしないは愛情表現のひとつだよ、つつがないおしゃべりで満足できるなんて綺麗事だ。わたしはセックスだってほしいし抱かれたいしめちゃくちゃになりたい、自慰する洸太と同じ性欲が女性にもちゃんとあって、でも自分でまかなえることじゃなくて、あなたに対してであって、あなたに対する欲求で、それは恥ずかしいことなんかじゃない。
 あなたのとなりに、わたしはちゃんといるのに。
 紙で成す婚姻関係の証明が唯一のよりどころだったのに、それさえも奪うのか。同質の紙が、わたしの些末な自尊心を攫っていく。白いクロスを睨んで涙をこらえたところで、状況は変化しない。

 まだかな。わたしの呟きは、アイスコーヒーと一緒に喉を抜けた。
 窓際の席は、植栽のすきまから大きな雲が見える。灰色と薄灰色のグラデーションが綺麗だ。涼しいカフェのなかは、蝉の代わりに音楽が奏でられていた。陶器に入っているアイスコーヒーをストローですすると、音楽から浮いて聞こえる。
 ずっと来てみたかったカフェだった。古民家を改装しているからか、歩くと床がぎしぎし鳴った。天井の梁も昔のつくりを残したしつらえにしてあって、おもむきがある。アンティーク家具にガラス細工のチェーンペンダント、入り口付近に並ぶ、おそらく販売されている陶芸品。普段仕事であつかう大量生産された雑貨にも当然よさはあるけれど、こうした一点ものの繊細さには目を見はる。
 洸太と結婚する前、このカフェに彼を誘ったことがあった。けれど断られた。たしかにここは弾んだ会話には向かないし、ひとりきりの客が多くて静かだ。ほかにもいい場所あるじゃん、と行動的な彼はわたしを引っ張った。
 ただそれも、昔の話。ひとの心もきっと、一点もの。
 きょうはここで、成瀬旭と待ち合わせをしている。
 陶芸家だという彼の名を検索すると、「藤工房」とすぐに出てきた。わたしは陶芸には疎く、目の前の長細い陶器さえ、深緑の色が綺麗、というくらいしかわからない。そもそも洸太の友人とはいえ、名前も先日はじめて知ったくらいだ。彼は結婚式にも参列しなかったし、会場の外で一瞬会っただけだった。
 彼は結婚式当日、式を終えて談笑する参列者からひとり外れて立っていた。正装が常識の場において、黒のカットソーにデニムとサンダルといういでたちが悪目立ちしていたのを覚えている。洸太を見つけると近づき、わたしに会釈し、「おめでとう。これ約束の」とだけ告げて紙袋を手渡して去った。愛想のなさとそのとうとつさに、あっけに取られた。
 紙袋には飾りっけのない緩衝材に包まれたカップがふたつ入っていて、帰宅してそれを見た洸太は、なんだかとても微妙な表情をしていた。眉を寄せ、口をつぐみ、言葉を発しなかった。きっと、ハレの日における友人の非常識なふるまいを、無言で責めていたのだと思う。けれど悪く言うのも気兼ねして、綺麗な青だね、と呟いた。
「うん」洸太は、青いカップをキャビネットに並べた。
 洸太とペアだから、という理由で、わたしも飴色のカップをキャビネットに並べていた。そのときは、成瀬旭という名前すら知らなかった。
 カフェの扉が開くと、涼しげな鈴の音が鳴る。見覚えのある男性が段ボール箱を抱えていた。近くにいた女性スタッフが小走りで彼に近寄り、受け取ろうとする。
「わあ、ありがとうございます! いただきます!」
「あー、いいですいいです重いから。俺運びますよ、どこ置けばいい?」
「すみません、じゃあこっちに……」
 小柄なスタッフは、男性をカウンターの裏に誘導した。仔細な会話は聞こえなかったが、とき折り笑い声が混じっている。注目するのもきまりが悪くてちらちら覗き見ると、男性は柔かな笑みをこぼしていた。あのひとが成瀬さんだと予測できたものの、結婚式の日とはまるでちがう表情で驚いた。
 カウンターから出た成瀬さんは、店内を見渡した。わたしは立ち上がり、彼を見て会釈する。彼もこちらに近寄り、頭を下げた。
「お待たせしてすみません。成瀬旭です」
「こちらこそ、急にお呼び立てしてしまって、すみません」
 彼はかぶりを振った。そしてスタッフに、アイスコーヒーをひとつ注文した。
「ここ、プリンもうまいですよ。一緒に頼みましょうか?」
 成瀬さんの自然な気遣いに、わたしは思わずうなずいていた。彼は後ろを向き、すみませんプリンもひとつお願いします、と通る声を静かに出した。はあーい、と先ほどのスタッフが笑顔で対応した。
「待ち合わせ場所も勝手に決めてすみません。ちょうどきょう、ここに納品に来る予定があったんで」
「いえ、わたしも前からこのカフェ来たかったんです。だからぜんぜん」
「そうですか」
 残ったアイスコーヒーをすすったとき、深緑がもう一度目についた。納品、と言われ、ぴんとくる。
「え、もしかしてこれ、成瀬さんの作品ですか?」
「まあ、はい」
「え? じゃあ店頭に並んでたものも?」
 まあ、はい。と、成瀬さんは、ひどくばつが悪そうに頭を掻いた。カップを持ち上げてまじまじと見つめると、やめてください、と彼は言う。普段眺めているはずの成瀬さんの作品が、ここに来てやっと芽吹いたように息を持った。へえ、すごい、と呟くと、ちょっと勘弁してください、と彼は視線を逸らした。
 結婚式の成瀬さんの悪印象は、ずいぶん変わった。ネットで彼を検索して、思い切って連絡を取ったときからそうだった。
「はい、藤工房です」という声は、一瞬息を呑むほど淡々としていて、言葉に詰まった。えっと、とまごついていると、もしもし? と訝しがられる。「わたし、伊藤一果といいます。伊藤洸太の……」ここまで伝えたところで、ああ、と返された。「妻」という言葉をためらった自分に苛立ったくせに、途中で遮られたことに安堵もした。やはり平坦な声だったので、余計に。
 ――成瀬さん、ですか?
 ――はい、そうです。
 ――ちょっと、ご相談したいことが、ありまして。急にすみません。
 知人以下の人間から吹っかけられる「相談」なんて、あやしさしかない。でももう、ここにしか糸口が見つけられない。断らないでお願い、洸太のことを教えて。
 ――いいですよ。えーっと、今度の日曜って休みですか? 「ミント」ってカフェで十四時に待っててください。
 ――え?
 ――相談とやらは、そこで聞きます。
 わたしは日曜日が休みであることと、待ち合わせ場所を復唱して通話を切った。拍子抜けするほど簡単に、約束を取りつけてしまった。無理に気を使われた様子も、逆にわずらわしさを滲ませた様子も、一切なかった。
「相談ってなんですか?」
 はっとして、顔を上げる。お待たせしましたぁ、とわたしの目の前にプリンが、成瀬さんの前にアイスコーヒーが置かれた。
「ほんとだ、おいしそう」
 卵色のプリンの上にカラメルがとろんとかかっていて、横には生クリームを添えてある。紺鼠色の陶器に、黄色のプリンが映えていた。
「もしかして、これも成瀬さんの作品?」
「そういうのほんとにいいんで、話があるならどうぞ」
 彼は頬杖をつき、あきらかに気恥ずかしそうでかわいく思える。同年代に見えるが、年下なのかもしれない。ふふ、と勝手にもれた笑みに緊張がほぐれた。気が重かったのに、ほんのすこし楽になる。
「あの、単刀直入に言うと、わたし洸太に離婚したいって言われたんです。いきなり離婚届突きつけられて」
「は?」
 あっけに取られたのか、彼はぽかんと口を開けた。当然だと思う。わたしでさえ混乱していて、当事者で理解しているのはおそらく、洸太だけだ。こんなこと、本来なら惨めで言えないはずなのになぜだろう、成瀬さんと会話をするのははじめてなのに、だれにも話せないことをこぼすみたいに口にしてしまう。
 わたしはスプーンでプリンをひと口すくう。ほろ苦いカラメルと、甘さ控えめのプリンが、ほんとうにおいしい。
「理由が、わからなくて。浮気してるんじゃないかって、洸太のスマホ見たんです。あ、盗み見じゃなくて、ちゃんと頼みました。引きますよね、自分でも思います。でもあのひと、浮気なんかしてなくて。それで、成瀬さんとやり取りしてるの見て、いつも成瀬さんのブルーのカップ使ってるし、洸太と仲いいのかな、なんか理由知らないかなって連絡しました。ごめんなさい、ほんとうに」
 やましさを吐露したあとのプリンはおいしいはずなのに、お皿との色合いも素敵なのに、カラメルの苦味だけが舌に残る。成瀬さんはやっとコーヒーに口をつけ、ひとつ息を吐いた。
「俺は、理由は知りません。そんな話はしなかったし、むしろびっくりしたっつーか」
「そう、ですか」
 彼が持つ陶器はわたしの深緑とは違って、鶯色をしていた。これも、成瀬さんの作品だろうか。
「伊藤さん、まだあのカップ使ってるんですか?」
「え? あ、はい。コーヒーもお茶も、ぜんぶあれです」
 そうですか、と成瀬さんは言って、また頬杖をついて、窓の外を眺めた。なんだかとても微妙な表情をしていて、どこか既視感があった。なんだろう、思い出せない。
「こわかったですね」
 成瀬さんは視点を動かさないままだったので、それがわたしへの呟きかどうか、わからなかった。
「得体が知れないものは、なんでもこわいじゃないですか。一果さん、こわかったでしょう」
 わたしを見て、ふと表情を緩め、背中をさするような声で成瀬さんは言う。じわっと気がたわんで、思わず目を伏せる。テーブルの上で遊ぶ成瀬さんの左手が目につき、彼の指を眺めた。爪が短くて、節が目立つ器用そうな指先だった。手の甲の筋が浮いていて、使いこまれたかたちに見えた。
 たすけて、すがりたい、たすけて。すがりたいすがりたい、この手に。
 深く息を吐き出し、顔を上げる。
「それも、成瀬さんがつくったんですか?」
「え?」
「鶯色の」
 カップ、と伝えた声が掠れていて、咳払いをする。
「ああ、松灰です」
「まつはい?」
 成瀬さんは、頭を掻く。Tシャツから覗く肘も、筋が目立っている。
「釉薬の色です」
「いいな、綺麗ですね」
「どうも」
 ありがとうございます。
 成瀬さんは、またそっぽ向いてしまった。

 週が明けて数日後、後輩とランチを食べた。うちの取引先のイタリアンの店で、特に女性に人気がある。職場から近いということもあり、偵察がてらランチタイムはお世話になることが多い。パスタをフォークに巻きつけながら、仕事の話も交えた。新しいカトラリーや夏らしく鮮やかな色合いの食器を提案しつつ、わたしは磁器のなめらかさをすこし不満にも感じていた。
 成瀬さんがつくる陶器の、無骨なのに繊細なかたちと色合いは、洋食にも似合いそうなのに、なんて。
「いちか先輩」
 顔を上げる。思考が逃亡していたようだった。
「じつはー、結婚するかもしんなくて。彼氏と」
 結婚、というワードに動揺し、フォークとお皿がこすれる。きいー、と不快な音がし、ごめん、と謝った。彼女は笑って、もてあそぶようにパスタを巻く。
「つき合って三年になるし、彼氏も私も子どもほしいなー、なんて話してて」
 まだ内緒なんですけど、とはにかむ彼女にわたしは、そうなんだ、よかったじゃん、とサラダを口に運ぶ。レタスを咀嚼していると、葉っぱの苦味が歯に沁みた。
「私、いちか先輩たちが理想なんです。前に新居に遊びに行かせてもらったときに思ったんですけど、お互い尊重し合ってるっていうか、素敵ですよね」
「えー? そんなことないよ」
「またまたあ、謙遜しちゃって」
 無理矢理引き上げた唇は、リップが剥げかけて乾燥していて、うまく笑えたかわからない。明るい笑顔をふりまく彼女に悪意はまったくなくて、わたしの答えかただって間違っていない。今ここで、希望あふれる後輩の勘違いも甚だしい幻想を打ち砕く必要もない。でもほんとうは、つややかな磁器もろとも床にぶん投げてヒールの底でぐしゃぐしゃに潰してやりたかった。
 あなたが夢を抱くいちか先輩のご家庭は粉々になりかけてますし尊重し合ってなんてないですしそんなの覚えてないですし子づくりの話なんてわたしの前でしないでいただきたいですし!
 破局しろ破局しろ最後は破滅しろあんたたちも別れてしまえ。
 口に入れたパスタは、きょうはなんだか硬い気がした。
 まずいなあ、もうとうぶん来ないですし。
 ――八つ当たりにも、ほどがある。
 むしゃくしゃしたまま帰宅すると、洸太が夕食をつくっていた。温かなにおいに胸がじんわりして、昼間の心の暴動にかすかな罪悪感を覚えた。おかえり、という彼の口調がいつも通りほがらかだったので、離婚云々は夢だったんじゃないかとさえ思えてくる。わたしも笑顔で近寄り、今晩のメニューを覗きこんだ。
 鶏の照り焼きに味噌汁、ほうれん草の胡麻和えはもう、小鉢によそわれている。アラビアのボウルだった。ささくれだっていた心の棘が、ぽろりと落ちる。
「ありがとう」
「いいよ、このくらい。胡麻和えは買ってきたやつだけど」
 ごめんなー、と洸太はきまりが悪そうに頭を掻いた。わたしは首を振り、おいしそう、と彼を見上げた。わたしが大好きな八重歯を照れくさそうに覗かせるから、やっぱり夢だと期待してしまう。
 そうだよ、離婚なんてしない、だってほら、わたしたちはこんなに幸せじゃないか、洸太だってきっとセックスレスに悩んでて、事情があるからで、だからそう、血迷ったにちがいない。
「あのね、後輩の子、前うちに遊びに来た子なんだけど、結婚するかもしれないんだって」
「へえ、そうなんだ」
 わたしはキッチンから出て、バッグをソファに置いた。
「子どもほしいなーって言ってて、羨ましくなっちゃった。ねえ、わたしたちもそろそろどうかな? 女の子ほしいな。きっとかわいいよ。あとね、この間ミントってカフェ行ったの。ほら、覚えてる? 前に誘ったことあったんだけど、素敵だったから今度……」
 そのとき、なにかを激しく叩きつけたような物音が響き、慌ててキッチンに戻った。フローリングに、わたしの飴色のカップが転がっている。ひびが入り、縁が欠けていた。ひゅっと息を呑み、言葉を失う。洸太を見上げても前髪のせいか瞳がうかがえず、こうた、と小さく呼んだ。彼は、はっとしたように顔を上げ、ごめん、と呟いた。
「ごめん、皿取ろうとしたら、手が当たって」
 ごめん、とまた謝罪されたから、わたしは首を横に振るしかなかった。
 その日の夜遅く、洸太が寝室に行ったあと、ひとりで外に出た。コンビニに行く、という言い訳はどうやら使わなくてよさそうだ。見向きもされなかった。終わったな、とただ思った。
 うつむき、ふふ、と漏れた自分の声がこわかった。子づくりの話はどうやら、彼の地雷だったらしい。
 ふふ、はは、あーあ、夢なんかじゃないじゃん、最低。
「さいていさいてい、もうさいってい……」
 いやだ、だれかたすけてだれか。
 ポケットからスマホを取り出し、ひとりの名前を見つける。夜分に失礼します、と最初の挨拶を復唱する間に彼に電話をかけていた。着信に出るかどうかなんて、考えやしなかった。
「一果さん? どうしたの?」
 夜分に失礼します、と言いかけて、でも出てこなくて、わたしはその場にしゃがみこむ。
「成瀬さん、たすけて、たすけてください」
 たすけて、おねがい。
 彼は黙っていたけれど、この時間の電話でさえ、わずらわしさを滲ませなかった。

 翌週の日曜日、蝉の鳴き声を聞きながら、わたしはひとり、藤工房に向かって足を進めている。
 あつ。呟いた声は、唾液の温さでふやけそうだった。狭い道路の端をわたしはひとり歩いていて、なだらかな山道は、ときどき車が通るくらいだ。
 高を括らないでタクシーに乗ればよかったし、それか、遠慮しないで迎えに来てもらえばよかった。道の両側は木々が生い茂っていて、絶え間なく蝉が鳴いていた。わたしが暑いと漏らしたところで、大合唱に阻まれて掻き消される。
 黒のカットソーワンピースの裾から、生温い空気が入りこむ。スポーツサンダルで歩くのも、だんだん辛くなってきた。スマホで何度道を確認するも、うねる一本道を真っ直ぐ上ればいいだけであることに変わりはない。でも、まだつかない。一旦立ち止まり、空を仰ぐ。
 ゆっくり呼吸を整えながら、葉の隙間から覗く太陽光に目を眇めた。これだけ鳴く蝉がどこにいるのか、わたしには見当もつかなかった。
 目的地は、もうすぐそこだ。
 藤工房の入口には、ころんと丸い風鈴が引っかけてあった。ドアを開けると、涼しげに奏でる。こんにちは、と挨拶すると奥の仕切り戸が開き、成瀬さんが顔を出して会釈した。玄関脇には陶器が飾るように並べられていて、わたしはあたりをきょろきょろと見渡してばかりいる。
 彼はわたしを仕切り戸の奥の作業場に案内し、丸椅子に座るように促した。そこには、未完成の陶器やわたしが知らない道具類が、ずらりと並んでいる。
「陶芸家の作業場ってこんな感じなんですね」
 見慣れないものばかりで感嘆すると、成瀬さんはきまりが悪そうに頭を掻いた。カフェでの彼も、そうだった。
「もしかして、照れてます?」
「ません。じろじろ見られんのが苦手なだけです」
 照れてるじゃん、とは言わなかったが、成瀬さんのこういう仕草はやはりかわいげがあり、気がほぐれる。彼は古びた冷蔵庫を開け、シロップいりますか? とわたしに尋ねた。ひとつ頷くと今度は、からんと軽やかに氷が鳴った。成瀬さんも同じように、けれどシロップ抜きのアイスコーヒーをつくった。
「どうぞ」と渡されたカップは、鶯色のものだった。まつはい、と呟くと、彼は柔かに笑んだ。わたしが綺麗だと言ったからだろうか。シロップと彼の優しい甘さが、じわりと沁みてくる。
 成瀬さんに電話した夜、わたしは途切れ途切れ話した。互いに詳細には触れず、成瀬さんにいただいたカップを不注意で割ってしまったこと、新しいカップを工房に見に行きたい旨を伝えた。成瀬さんはひと言、いいですよ、と言った。距離があるし駅まで迎えに行きます、と彼は続けたのだが、遠慮したのを今になって後悔している。足は棒のようだし、汗だくだ。
「ほしいカップがあったら、適当に持って帰ってください」
 成瀬さんは、仕切り戸付近を顎でしゃくった。ありがとうございます、と返すと、彼もカップに口をつける。今気づいたのだけれど、彼のカップは、洸太のものとよく似ていた。同じコバルトブルーで、底の部分が茶色い。
「それって、洸太と同じ?」
「ああ、でもこれは試作品みたいなもんです」
 彼はカップを丸テーブルに置き、息を吐く。
「青の釉薬の扱いが、俺はあんま得意じゃないんです。伊藤さんとはたまたま、ミントに納品に行ったときに会いました。そんで取材申し込まれて、それからまあ、なんつーかプライベートでも会うようになって、あのひとはここにもよく遊びに来てました」
 そういえば今まで、成瀬さんと洸太の繋がりをわたしは知らなかった。ミント、という名詞がなぜか喉に引っかかる。
「このカップがほしいって言ったんです、あのひと。でもまだ試作品の段階だったんで、伊藤さんが結婚でもしたらお祝いにつくりますよって」
 そんな感じです。そよぐ夏風で鳴る風鈴のような声を、成瀬さんは出した。すぐに移り変わる景色の儚さがあって、ふと洸太のカップの青色が浮かぶ。いつも大切に使う、一点もののコバルトブルー。
「成瀬さんは、洸太と、仲いいんですね」
 急にせわしく心臓が鳴りはじめ、右手で心臓のあたりを掴んだ。
「別によくないですよ。あのひとがあんたにどう説明したのか知りませんけど、俺は伊藤さんが嫌いでした」
 攻撃的な言葉なのに、成瀬さんの口調は柔らかくはためいている。生温い風で鳴る風鈴の音色が、まどろんで見る夢のようにとろとろゆっくり奏でていた。
「俺はあのひとが大嫌いです。わがままで、自分勝手で、伊藤さんがあんたと結婚したことを、今もムカついてる」
 ふたつの同じ色と、ふたりの表情が重なる。カフェで感じた既視感の正体。彼は目を伏せ、青いカップを手に取った。見れば見るほど、洸太のカップによく似ている。つうっと唇を寄せてコーヒーを飲む仕草はまるで、舌で与える愛撫だ。
 割られたカップの理由。それってほんとうは、なに? ミントに行くのを拒絶したのは、なんで?
 洸太は成瀬さんの話を、なにひとつしなかった。その名前さえ、わたしには。
「いやだなあ、もういやです」
 目尻に映りこむ、揃いのブルー。ふたりの一点もの。その青が瞳のなかで、いつまでも揺れ動く。
「わたしたちセックスレスでした、あのカップだってほんとうは洸太が割ったんです、なんででしょうね、成瀬さんわかりますか? わかるでしょ、ねえ!」
 あーあ、あーあ、あーあ!
 次第に荒らいでいく語気にも成瀬さんはまるで動揺なんて見せなくて、じっとわたしを見つめるばかりだった。その目には、憂いや同情やほしくもない気遣いで満ちていて、もういっそ過ぎゆく音色や景色や、そうだ夢であってほしいのに、成瀬さんは現実から逃してくれない。いやだいやだいやだ、とばかのひとつ覚えみたいに嘆いては首を振る。
 足音がし、顔に陰がかかり、顔を上げると成瀬さんは立っていた。 
「寝ますか?」
「え?」
「俺と、寝ますか?」
 わたしの手首を取った彼は、凪いだ表情で見下ろしてくる。どうして? と問うと、なんとなく、と返って来た。
「きょうのこと、利用されちゃだめです。あんたが俺を利用してください」
 視界のさきにはずっと、成瀬さんのカップがあった。洸太のものと同じ、なめらかなくぼみに沿って、コバルトブルーがきらめいている。
「ムカつくでしょ、俺のこと」
「はい、とても」
 成瀬さんはふと、自嘲気味に笑った。
 洸太は毎日、どんな気持ちで青いカップを眺め、キャビネットに置き、繰り返し唇をつけたのだろう。
 欠けてひび割れた飴色を捨て、あのひとも成瀬さんもきっと、わたしを置き去りにする。
 出ていく算段をはじめた洸太に、わたしも離婚届に判を捺すことを告げた。
 数週間後、ダイニングテーブルに向かい合って座り、彼に叩きつけるように紙を差し出す。洸太の瞳のなかにはわたしに対する負い目がたしかにあって、けれど同時に歓喜も滲ませていた。
「ありがとう」
 洸太は言った。わたしは底を見た気がした。この表情と、一枚の紙に。
 ありがとうって、なに。離婚は感謝の対象でわたしたちの生活の終焉は安堵の象徴なのか。
 ふつふつふつふつ、渇かない泥水がうごめいて体がわななく。
「……これから、どこに行く気?」
 洸太は首を傾げる。彼の職場が変わらないことは知っているし、でもこれからどこに住むのかは知らない。わたしが聞いているのは、そんなことじゃない。じっと彼を覗きこむと、はじめて会ったあの日のようにいとけなく、だけど心憂いた瞳のままだった。
「どこにも」
 首を振る彼に、やりきれなくなる。
 たとえば結婚を逃げ道にしていたとして、あらがえない気持ちに悩ましく憔悴していたとしても、あてどなくさまようのは、あんたじゃない。
 どこにもって、ふざけんなよ。
 ――利用されちゃだめです。あんたが俺を利用してください。
 離婚届を手に持ちキャリーバッグを引きずりはじめた洸太は、じゃあ、とわたしの肩に声を放った。洸太がリビングのドアを開ける直前、彼を呼ぶ。ふり向く洸太に、あのね、とできるかぎり甘ったるく声をかける。
「わたし、成瀬さんと寝た」
 洸太は目を見開き、おもしろいほど唇を震わせた。でも、体裁を気にする彼がなにも言えないのは知っているし、言質を取られたところでそれを証明する手立てなんかない。それに、あなたが責めたいのはきっと、わたしじゃない。立ち上がり、力の抜けた彼の手から離婚届を取った。
 わたしが出しとくね、大丈夫、あなたが出て行ったらすぐ区役所行くから、手続き終わったらラインする、じゃあ。
「さようなら」
 洸太の肩をとんと押すと、彼は一瞬口を開けて閉じ、半分よろめきながら歩き出した。玄関ドアが閉まったのを聞き、わたしはテーブルに突っ伏した。
 ざまあみろ。どうだ悔しいだろうどん底だろう不幸だろう。
 はは! ははは! ああーさいっこうの仕返しだ。
 でもなんでだろうね成瀬さん。洸太の表情、言葉、今までの彼の行動すべてに、ざまあみろってわたしが言われているみたい。

 一組の夫婦が破綻して一ヶ月が過ぎたところで、世間の日常はつつがなく過ぎていくらしい。わたしは未だにこのマンションに居残り、日々仕事に邁進している。夏が終わっても湿度が失せることはなく、帰宅するとすぐにエアコンをつけた。
 なに食べようかな、と呟きながら、キッチンには立たず結局ソファに横になる。すうーっと通り抜ける緩やかなエアコンの風が、わたしの湿気た首筋を冷やしていく。
 このソファは、洸太との生活のために買ったものだ。ソファだけじゃない、ベッドも、ダイニングテーブルもチェアもローテーブルもぜんぶ、ふたりで選んでふたりで笑い合ったかたちだった。苦いだけじゃなく、心ゆくまで触れ合った日も現実にはあって、くすくすと木漏れ日みたいに囁き合ったこともあった。しあわせだなあ、ここで生きていくんだなあって、洸太の胸のなかでふくふくした喜びを重ねたことも数え切れない。
 好きだった、好きだったの、憂いた瞳も少年みたいな喋りかたも照れくさそうな笑顔も、そこからこぼれる八重歯も。
 もうどこにも洸太の気配はなく、あるのはただ、ひとつだけ。
 キャビネットに残る、置き去りにされた証。
 成瀬さんには最後、ショートメールだけ送っている。
 ――離婚しました。わたしを助けてくれてありがとう。
 返信はなく、返ってくるとも思っていない。もう会うこともないだろう。ただ、体に熱が灯り、じわりと湿るくすぶりを持て余したとき、浮かぶのは成瀬さんだった。胸のふくらみに手をやると、それだけでは足りなくなる。
 成瀬さんはあの日、丁寧な衝動を持ってわたしを抱いた。工房の隅に追いやられ、口づけて舌を絡め、彼は汗をかいたわたしの首筋も丹念に愛撫した。コバルトブルーを愛でるように、わたしを。
 長く触れられていなかった体は過敏に反応し、少しの指の動きでさえ翻弄された。ワンピースの裾をたくし上げられ、彼はわたしの乳房も突起もなぶって味わった。濡れたそこに入ってくる指に、わたしは叫ぶみたいに喘いだ。成瀬さんは口づけでそれを抑え、こもる呼吸と絡まる唾液の交わりさえいやらしく、小さな音にまで反応してしまう。もういってしまう、というときに成瀬さんはわたしに入ってきた。脳髄にまで駆け上がる快感に、首を逸らして耐えた。彼はわたしの喉のあたりを甘噛みし、そこで息をみだしながら呟いた。
 ――どうかしてる、一果さんを抱かないなんてあのひとどうかしてる、こんなにいいのにね、もったいない。
 動かされるたび、伝わるものと気づくことがあった。雨のなかで洸太をホテルに誘ったときのこと。寂しさの共有でも同情の売買でもなんでもよかった。わたしは彼に抱かれたかったし、洸太が縋る相手がだれでもなくわたしであったことを喜んだ。成瀬さんも、きっと同じ。言葉にしなくとも、内側から入りこむ。
 切なさも罪悪感もやるせなさもぜんぶ、ないまぜにしてわたしに注いだ。
 だれかさんを思い続ける洸太に知らないふりをするのは、もうたくさんだ。判を捺せたのは、成瀬さんのおかげだった。
 自分の手で好きな箇所と思い出をいじくって味わった絶頂のさいはては、途方もないむなしさだった。洋服を着直し、立ち上がるとふらついた。あーあ、と呟いてもだれも返事をくれない。
 キッチンに入って眺めたキャビネットには、ひび割れた飴色のカップが今もまだ、アラビアの食器のなかに紛れている。洸太はきっとアラビアなんかいらなかったし、片割れのコバルトブルーさえ手元にあればよかった。いや、片割れなんかじゃない、最初からあのひとは、ひとつ持っていればじゅうぶんだった。
 ――成瀬さん、この鶯色のカップください。
 ――どうぞ。新しいのに変えますよ。
 ――これがいいんです。
 ――そうですか。
 持ち帰ったのは、成瀬さんがアイスコーヒーを入れてくれたカップだった。丁寧に洗って、クローゼットのなかに置いたままでいる。
 アラビアの食器が好きだった。鮮やかで、華やかで、見栄えがよくて、好きだった。ほんとうは、異色に浮いて見える手づくりの陶器なんて嫌いだった。いらなかった。捨てたかった。並べたくなんてなかった。洸太が好んで使っていたから一緒に並べていただけ。でも、今は。今は?
 飴色のカップなんていらない。わたしの彩りを蹴散らすものめ。思いっきり叩きつけてやる。手を伸ばし、それを掴んだ。頭上まで振り上げ、結局下ろせない腕に脱力し、その場に座りこむ。
 ごろん、とカップが転がった。欠けた縁と、ひび割れがよく見えた。
 洸太が出て行ってひとりになったこの部屋で、わたしははじめて泣いた。

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