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読書日記229【しんせかい】

 山下澄人やましたすみとさんの作品。シナリオ的な書かれ方というか、劇団を主宰しながら舞台俳優をこなし、脚本・演出をする方らしく、舞台のシナリオを読んでいる感じがある。話の内容は自伝小説で19歳の時に倉本聰さんの主催する俳優と脚本家の養成する「富良野塾」の2期生として過ごした2年間が書かれてる。

 高校を卒業して何もすることがなくフリーターをしている主人公のスミトに間違えて入ってきた新聞のチラシが目に入る。「二期生募集」と書かれたチラシに応募して受かり、兵庫県から北海道の富良野へ船で向かう所から話は始まる。それは彼女の『天』と離れることでもあった。共に手紙を書こうとを約束する。

 脚本家や俳優なのに馬の世話や自分たちが食べるための玉ねぎを植えたり、家を建てたりしている。プロレタリア文学でも書かせたいのか?とちょっとだけ考えたりする。著者も同じ考えらしく、単純労働と脚本がどうマッチングするかがわからないまま、二期生として授業を受ける。

そのことがとても大事で、彼は質問に固有名詞だけでこたえた。これがセリフとなると、いろんなイメージが出てくるね。無口だとか、ぶっきらぼうだとか、敬語がうまく話せない人だとか、敬語うまく話せない人だとか。敬語うまく話せない人っているでしょ。漁師とか」

山下澄人著 しんせかい

 人から話を聞く時は語尾が大事だと先生は一期生と二期生の前で話す。本を書くというか文学だとすると、蝶々が飛んでいるところを表す時に「蝶々がとんでる」と人に言わすのがいいのか、それとも蝶々が飛んでいた。とそのまま書くのがいいのか?相手に伝わればいいわけではないので、表現の仕方が問題になる。つまりは作家の究極は言葉選びになる。

 脚本(シナリオ)の場合はその人の喋る語尾を大事にするらしい。確かに口語なのだから、そのニュアンスで話は変わる。なるほどと思いながら読み進めていく。演劇指導や馬の世話、丸太の家の製作、薪割りや畑の仕事をしていて「何をしているんだろう」とスミトは考える。


 倉本聰さんは「北の国から」という有名なドラマの脚本家でもあるし、橋田壽賀子とかとも比べられる有名な人物だから、自分の手掛けた作品とかに斡旋することはできる。ただ勉強をしたから上手くいくか?先生のいう「足腰の強い人」ってなんだと読んでいても疑問は残る。

 ただ、脚本家って新人でポッっと発掘されることが多い。内館牧子さんは事務職をシナリオライターの学校に通ってだし、今の大河ドラマの脚本家の古沢良太さんは漫画家志望で漫画を書いていたらしい(入選経験あり)。実力主義というか面白ければ映像や舞台に登場するけど、面白くなければ名前関係なく酷評される。
 誰かに教わったから面白くなるわけでないこと、天性と個人努力の世界だというのはすごくわかる。

 俳優は芝居よりまんま「見た目」なのだから、モデルが女優をやるのがいいわけでそれが普通になっている。若手の女優さんでCanCamのモデルとかモデル経験のない人いるのかな?と思うようになってきた。頑張って名脇役になってというのが最終目標なら、それはそれで寂しい世界観ではある気はする(華やかな仕事という意味で悪気はありません)


 暫く返事のなかった天から手紙が届く。その内容は「新しい彼と付き合った」友達以上恋人未満の二人の遠距離での交際の結果をスミトは上手く事実が呑み込めなくなっていく。
 子供のころからもっている喘息が再開して意識の薄れる中にスミトがみるものとは…

 読みやすくて説明も上手い。表現方法というけど、難しさよりはわかりやすい言葉で表現したほうが、感情を込めやすい。劇団とは俳優とは脚本とはと疑問符をそのまま残して完結しているのが、逆に拡がりを感じる。吉川英治のように歴史の大衆文学的なものを書いてもらうと面白いだろうな~というような書き方をしている。(説明下手ですいません)


 宮本輝さんの批評で表現方法が幼いのを意図しているのか?それとも本当にそうなのか?と書いてあったのを読んで、「あ~っ有名な劇団員か座長が書いたものなのかな」と思って読まなかった。唐十郎からじゅうろうさんのようなアングラ(反権力主義)な作品かと思っていた。「聴衆は豚」といった有名な人で、読んでいて「あわないな~」と思ってそれ以来、劇団の人の書く本とかは読んでいなかった。

 やはり人の批評や思い込みで読まないことがないようにしたい。あと芥川賞の受賞作品です。

 

 

 

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