苦手な蕎麦の話
私は蕎麦が好きじゃなかった。
子どもの時は、こんなもそもそしたものをわざわざ年末に食べるのかと肩を竦めた程度だったのだが、ある年末に蕎麦打ちの教室に行った祖父がどこから自信が湧いたのか家で蕎麦を打った時があった。その時の蕎麦はお世辞にも美味いとは言えず、箸で持っても2〜3cmくらいで千切れて落ちるような蕎麦だった。しかも割と大量に作ったらしく、食べるのに本当に苦労した。お陰で、まあ食べられる程度で留まっていた蕎麦が好きではなくなり、以来数年間は有名処だろうがなんだろうが食べていなかった。
しかし茄子が食べられるようになって己の舌が変わってきたなと感じ始めていた自分に転機が訪れた。
とある漫画で主人公が訪れた食事処でにしん蕎麦を注文した。ニシンが有名だと言われている彼の地で美味しそうににしん蕎麦を食べている描写を見てしまい、それが本当に美味しそうで(食レポがやたら上手いのだ)、もし見かけたら食べてみたいとほんのり思っていた。そんな時、足利にある織姫神社のカラフルな鳥居を見たくて足を運んだ際に、蕎麦屋が目に入った。こじんまりとした外観に唆られ外に出されているメニューを眺めると『にしん蕎麦』の文字があるではないか。
この見晴らし。良い雰囲気の建物。コンディションは最高だ。これはもう、失敗しない味を提供してくれる。
迷いのない湧き上がる確信を胸に勇んで店内に足を踏み入れた。
結果、本当に大正解であった。
一緒に行った人にまずこれが美味しいと勧められた。ニシン蕎麦さえ食べられたらいいと思っていたが、このさらしな生一本は蕎麦感が薄い蕎麦だと言われた、それならまあ胃も拒絶しないで食べられるかと(もしダメだったら食べて貰えばいいとなり)まるで刺身の下に敷くつまのような蕎麦も注文した。
店内の大きな窓から入る陽光に、細く透明感のある蕎麦が日を反射しながら登場した。
「お早くお召し上がりください」と店主が言う。そんなこと言われる料理は正直初めてだ。言われるがまま早速さらしな生一本を口に運ぶとその繊細さに思わず唸ってしまった。あんなに蕎麦が苦手だったのに『負けだ』と白旗を振るような思いが湧き上がる。人が作る美味いものは際限がなくて恐ろしい。そんなに量もなかったお陰であっという間にこの美しい白い蕎麦を平らげてしまった。完全にお手上げだ。お前はこの美味さを享受しろと言わんばかりの蕎麦に大人しく従う。
続いて大本命のニシン蕎麦だ。
運ばれてきた時、日に当たるそれはまさしく虹が掛かっていた。蕎麦に虹が掛かるなんてあるのかというほど、真ん中に置かれたニシンがキラキラと輝っていた。
まずはニシンを一口。美味い。想像していた魚臭さは一切ない。ニシンの油が最高に美味い。身もよく煮付けてあるのか、ほろほろとしてきて優しい味わいだ。つゆと一緒に口に運べば完全勝利だった。ありがとう漫画の主人公。めちゃくちゃ美味いです。
今回のニシンの相方、蕎麦を口に運ぶ。こちらは普通の蕎麦だったが胃袋が拒絶しない。あの蕎麦特有の、私の胃袋が抵抗を生む一因でもあるざらつきが少ない。ならばとニシンと一緒に食べればしっくりとハマった。これだ。これだよこれ。なるほど美味い。一心に食べていると蕎麦もニシンもなくなっていた。感謝の意を込めて手を合わせる。さらしな生一本もニシン蕎麦も小腹を大人しくさせるにはもってこいな控えめな量だったが、もう脳も胃袋も満たされた。
相性の良い食べ物を見つけた時の幸福感。一生大事にしたい。
蕎麦、侮るなかれとはこのことだ。
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