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もうそろそろ楽観的になりたい

「領収書」と聞くと緊張する。
救心では効かないレベルに動悸がする。

社会人になって4〜5年経つが、いまだに領収書の書き方が覚えられない。しょっちゅう書く訳でもないため、毎回微妙に書き方を忘れる。

いや、忘れているというより、自分の記憶が信じられないと言った方が正しい。

お金のやり取りに関わる作業なので「間違ってはいけない」というプレッシャーがすごい。プレッシャーが記憶にモヤをかけ、不用意に記入させてくれない。

白紙の領収書と対峙するときは、毎回土俵際の力士みたいな顔をしていると思う。

ゆっくり記入できる場面であれば書き方を確認しながら書けば良いのだが、突発的に領収書を求められたときは慌てる。

こんな厄介なものを平気で書ける人は心臓にびっしり剛毛が生えているに違いない。

領収書の記入が発生しそうな場面に出くわした時はすっと自分の存在感を消す。「誰か代わりにやってくれますように」と当事者意識のツマミを全力でゼロの目盛まで回し、祈っている。


思えば、領収書の記入以外でも、普段の生活で自分の記憶を信じられないことが多い。そのたび確認するので間違うことはないが、確認が過剰になってしまうと時間もかかるしストレスも溜まる。

ひどい時は「ああもう間違っててもいい。どうにでもなってしまえ」と自暴自棄になりながら、丁寧に間違いがないか確認している。意識と行動が乖離している。自分で自分の身体を動かしている感覚がない。


日々、頭の中の悲観的な自分と楽観的な自分が対話している。

悲「これは間違ってない?あれは確認した?もう1回確認した方がいいんじゃない?間違ったら大変なことになってしまうよ?」

楽「いやもうそこは何度も確認したから大丈夫だよ。悲が言う間違いが起こる可能性は、IKKOさんに隕石がピンポイント着弾するくらい低いよ?」

大体の場合、最終的には楽が悲にブン殴られてセコンドからタオルが放り込まれる。いつも悲観的な自分が優位に立っている。僕はIKKOさんに隕石が直撃する世界で生きている。


「まあ何とかなるっしょ」とよく言う楽観的な人たちがいる。なぜそう思えるのか、僕には不思議で仕方がない。なぜ彼らは「自分の未来が悪い方には進まない」と信じることができるのだろうか。義務教育にそんなカリキュラムはなかった。

彼らはいつどこで、人生におけるチートスキルを獲得したのだろう。課金で手に入るのならば、喜んでクレジットカードを登録するのに。


もしかしたら楽観的な人たちは、人生の中で「何とかなった」経験が多いのかもしれない。何とかなったからこそ、ある程度の危険やピンチも「何とかなる」と思えるのではないか。

言い換えると、回避できるピンチと回避が難しいピンチを嗅ぎ分ける能力があると言える。回避できるピンチは楽観視し、回避が難しいピンチは事前に対処する(対処できずに留年した大学の同期を何人も見たことがあるが)。

太古の昔から人間はそうやって自分の精神と肉体を守ってきたのかもしれない。


「ピンチは楽しむしかないよね」と、ある人から言われたことがある。ネガティブな状況を無理やり変換しようとする「ポジティブの押し売り」だとばかり思っていたが、その人にとっては「楽しめる範囲のピンチ」だったということか。

「何とかなった」経験を積むためには「ある程度適当になる」勇気を持つことが大事なのかもしれない。目の前のことに対する事前準備はもちろん大事だが、過剰にはしない。

ある程度適当にやって「何とかなったな」という実感を得ることが、人生の中で精神と肉体を守る術になるのかもしれない。

もっとさらりと日々を生きる。さらりと領収書を書くし、IKKOさんにはさらりと隕石を避けていただく。

「それができたら苦労しないよ」と楽をブっ叩いた悲がこちらを嘲笑っている。確かに即効性のある手段はないだろう。日々の習慣だ。

さらりと適当に生きていく中で、自分の未来を信じられるようになるのかも。











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