僕は欠く部分を書くことで補っているのかも

人が生きる上で大切なものっていくつかあると思うんですが「表現」もその一つだと思っています。表現を通じて、社会と繋がったり、自己承認が進んだり、それでお金を稼いでいる人もいるわけです。

ただ難しいのが「何を表現したいのか」「何で表現したいのか」を見つけることです。これは難しい、いやほんとに。「あなたのやりたいことは何ですか」と尋ねることとほぼ同義。ほぼ人殺し。

結論としては「色々経験して、色々試行錯誤して、自分の心地よいものを探すしかない」に落ち着いてしまうと思うんですが、ありふれた回答のあまり相手方に納得感を与えられない、最悪反感を買うと思うので、安易に使用しないほうがいいと思います。

話が逸れました。今日はそんなことを伝えたいわけではありません。「何で表現したいのか」については、人によって向き不向きがありまっせ、という話をしたいのです。


僕が26年生きてきて気づいたことは、人との対話があまり得意ではないということです。これに気づいた時は愕然としました。関わりが薄い人であればあるほど苦しい。これに気づいた時は愕然としました。「関わりが薄い人と話す」という行為だけで脳の容量を大きく使ってしまい、何か発展性のある対話をするための容量が残っていないのです。これに気づいた時は愕然としました。愕然としました。


そんなぼくですが「たくさんの人が思わず笑ってしまう」ようなことを表現したいと思ったりもします。

でも、僕が芸人さんになってバラエティ番組のひな壇で活躍することはなかなかに時間がかかることだと思います。瞬発的な言葉のやり取りが本来的に得意ではないからです。

ネタを作って劇場で笑いを取ることのほうが、ひな壇よりかは可能性があるかもしれません。こちらは瞬発的な言葉のやり取りではなく、事前に台本を作り、練習した「ネタ」だから。

文章を書くのは嫌いではないので、文章で笑いを取る方法も良いかもしれません。ネタは表情、言葉、動き全てで面白さを表現しますが、文章はそれが文字のみに絞られるので多少複雑さが軽減されます。文章を推敲できるので、瞬発力も不要です。


目的は変えず、自分の苦手ではないものに合わせて手段(表現方法)を変える、という考え方もアリなのかもしれません。苦手ではないものの方が長続きしますしね。

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