【法学部の講義】裁判所なのに審査却下!?
裁判所は、裁判を行い判決を下す機関です。ですから、基本的に法律上の争訟について審査をしてくれるはずです。しかし、裁判所が審査をしなくてもよいという理論がなんと憲法学上存在します。それが「統治行為論」です。
統治行為論とは、いかなることを指すのでしょうか。統治行為論は、高度な政治性を有する行為については、裁判所が合憲/違憲の判断を示すことができるのにも関わらず、あえて審査しないことをいいます。簡単に申し上げますと、政治の問題には裁判所は関与しないということです。
統治行為論が具体的に問題となった事件があります。その1つが、1949年の苫米地事件です。この事件の内容は、吉田茂内閣(当時)の衆議院の抜き打ち解散が違憲無効だとして、苫米地衆議院議員(当時)が任期満了までの歳費支払を請求したというものです。つまり、苫米地議員が主張する歳費を支払ってもらえるか否かは衆院解散が違憲無効か否かにかかっていることになります。
ここで、最高裁は、「高度に政治性のある国家行為」は「裁判所の審査権の外」にあり、その判断は「国会等の政治部門」や最終的には「国民の政治判断」に委ねられるべきだとの判決を下したのです。
そして、衆議院の解散は、高度な政治性のある国家行為だとして審査すらしてもらえず、苫米地議員の主張は退けられることとなりました。
統治行為論には賛否両論があると思います。賛成意見としては、高度な政治行為については、司法部門たる裁判所ではなく、政治部門たる国会で議論すべきだ、というものが挙げられます。また、裁判所が高度な政治的問題(政治的問題は国民間で意見の対立があるのが通常)を審査することで、裁判所に対する国民の信頼が損なわれるのでは、という意見もあります。
一方で、反対意見としては、司法審査をしないことこそ司法権の後退であり、裁判所に対する国民の信頼が損なわれるというものがあります。
アメリカの裁判所は積極的に賛否両論ある問題に判断を下している印象があります。実際に、6月24日には、米最高裁が人工中絶規制を容認する判断を示しています。一方で、これは全米各地で中絶の賛否を巡るデモを引き起こしました。
また、アメリカでは最高裁が躊躇なく政治的判断を示すものですから、大統領が最高裁に自派の判事を送り込むことが起きています。
一方で、統治行為論に親和的な日本はというと、よくもわるくも最高裁が判断をなかなか示しません。そのため、裁判所というものが国民の関心事になりにくく、衆院選時に行われる最高裁判所裁判官の国民審査(憲法79条2項)は空気と化しているのが現状です。
これは三権分立における難しい問題だと私は感じます。立法府(国会)と司法府(裁判所)がとある判断を巡っていかなる程度まで関与するのが適切かということです。互いに関与しすぎると互いに独立すべき政治と司法が混ざってしまう一方で、互いに関与しないとすると、立法府の管轄か司法かの管轄かが微妙な問題について、司法府が判断を避けるようになり、司法による立法府のけん制という本来期待されている役割を果たせなくなります。
統治行為論は憲法のゼミでしばしばテーマになる理論です。そして、皆の意見が割れるため、そう簡単に意見はまとまりません。みなさんはどう考えますか。
参考:「18歳からはじめる憲法」(法律文化社、第2版)水島朝穂
判決全文:053530_hanrei.pdf
*これは学部生が執筆した記事です。
専門的な助言を与えるものではありません。
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加筆修正:2022/12/02 今回のキーワード追加
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